「小学生の頃から自分は“ダブルス向きだな”と思っていました」。そう語る早川賢一は、遠藤大由と組む男子ダブルスで全日本総合選手権を連覇し、国際バドミントン連盟(BWF)の世界ランキングでも3位(21日現在)とワールドクラスに位置するダブルスプレーヤーである。高校までは、シングルスでも全国大会で好成績を収めてきたが、ダブルス選手として生きていく思いは揺らがなかった。
 小学1年で始めたバドミントン。早川はシングルスより、ダブルスに惹かれた。初めて全国大会のタイトルを獲ったのもダブルスだった。3年時に全国小学校選手権大会で2歳上の山口公洋と組み優勝した。「ただ同い年にバドミントンをやる子がいなかったので、ダブルスを組もうにもパートナーがいなかった。仕方なくシングルスをやるしかないという時もありましたね」。それでも4年時からはシングルスでも2位、優勝、2位と、3年連続決勝進出を果たすなど、早川は非凡な才能を見せつけた。

「ケンイチはシングルスもダブルスもうまくこなせていましたが、昔からすごく器用で、そこを発揮できるダブルスが好きだったのだと思います」。早川がダブルスにこだわる理由を証言するのは、同じ日本ユニシス実業団バドミントン部男子チームに所属する1学年先輩の数野健太だ。滋賀県出身の早川とは実家が近所で、幼稚園から一緒の幼馴染。大学の寮では同部屋にもなり、現在も徒歩圏内の近所に住む。“ケンちゃん”“ケンイチ”と呼び合い「家族より一緒にいる」という仲である。早川をよく知る数野は現在、チームのキャプテンを務める。明るいムードメーカーの“弟分”をこう分析する。「本当に明るい性格で、たとえば練習でも、きついものをきついと思ってやるのが嫌なので、楽しい雰囲気で取り組むように持って行くのがすごくうまいですね」

 幼馴染との決別、初めての同学年とのペア

 日吉中学、比叡山高校でもダブルスで全国優勝を経験した早川。高校2年時の03年には、幼馴染の数野とペアを組んだ。国民体育大会に滋賀県代表として出場するためである。それまで、ほぼシングルス一本でプレーしていた数野は、早川とダブルスを組んで「衝撃的だった」という。「ケンイチが前衛でゲームを作ってくれる。相手を崩して、チャンスボールを上げさせるんです。“僕は後ろで打っていればいい”という感じでした。すごくやりやすくて“ケンイチと組むダブルスは、こんなに楽なのか”と驚いたほどです」。2人の活躍により、滋賀は少年の部を8年ぶりに優勝した。

 数野とのダブルスは日本大学に進学してからも続いた。2、3年時には、全日本学生選手権大会(インカレ)で連覇を達成。早川が4年時、数野が日本ユニシスに入社1年目の08年には、全日本総合選手権で準優勝を収めた。早川が日本ユニシス入社後も、2年連続で決勝の舞台へ辿り着いたが、いずれも日本一には届かなかった。国際大会でも優勝はなく、五輪、世界選手権に次ぐグレードのスーパーシリーズ(SS)では8強の壁を超えられずにいた。早川&数野組が残した国際大会の通算成績は40勝33敗。世界ランキングは17位が最高だった。

 なかなかレベルアップができず、結果も出ない。パートナーを務めていた数野は「自分の実力が足りなかった」と認めた上で、こう続けた。「ケンイチは僕を慕ってくれていた。不満があったとしても、口に出せなかったと思います。小さい頃から一緒で、互いに相手のことを分かっていたので気遣ってしまった部分もあった。ダブルスは2人でつくり上げていくもの。傷つけてでも言い合うことができなかったのが、成長の足を引っ張ったのかもしれません」。伸び悩んでいた早川と数野は大きな決断を下すことになる。

 ペアの解消――。10年6月、日本代表ヘッドコーチのパク・ジュボンらからの提案で、コンビを変えることになった。新たなパートナーは同じ日本ユニシスに所属し、同学年の遠藤。これまで先輩後輩とばかり組んできた早川にとっては、初めて同い年とのペアだった。早川は遠藤を「“動くなぁ”というイメージ。対戦しても、後衛からバンバン決めて嫌なタイプ」との印象を持っていた。一方の遠藤も小学校時代から全国大会で活躍していた早川を「何が巧かったという記憶よりも“強い選手だな”と見ていました」と強敵と感じていた。

 2年後に迫ったロンドン五輪を目指すため、個人戦ではライバルだった2人がペアとなった。実際に組んで見ると、互いに「しっくりきた」という。すると7月のオーストラアオープンで早くも成果が生まれる。結成わずか1カ月で、国際大会初制覇を成し遂げたのだ。すると10月のデンマークオープンではSSで自身初のベスト4入りを果たした。3ケタだった世界ランキングも組んでから1年足らずの11年4月7日時点で13位と急上昇した。日本人ペアとしても2番手につけ、1年後に控えるロンドン五輪の代表選考レースでも好位置につけた。

 五輪代表落ちからの日本一

 11年12月の全日本総合は、決勝に進出するも選考レースのライバルである平田典靖&橋本博且組(トナミ運輸)にストレートで敗れた。年明けに発表された世界ランキングでは13位。平田&橋本組の8位、佐藤翔治&川前直樹組(NTT東日本)の10位に次ぐ、日本の3番手だった。ロンドン五輪でのダブルスの出場枠は16組。基本的にはランキング上位順に出場枠が確保されるが、1カ国最大2組までと限りがあった。8位以内に2組以上がランク入りしている国は2枠。それ以外は1カ国1組の出場枠となる。12年5月3日付の世界ランキングで決定するため、13位の早川&遠藤組にも十分可能性はあった。

 しかし5月3日に発表された世界ランキングは、順位を1つ落としての14位。日本3番手の位置は変わらなかった。ロンドン五輪には佐藤&川前組が出場した。早川&遠藤組は発表直前のインドオープン(SS)で決勝に進出していれば、逆転できていたかもしれなかったが、結局はベスト16止まりだった。
「その前にチャンスがあったのですが、試合を落としてしまった」と早川が語るように、3月のスイスオープンと4月のオーストラリアオープンでベスト4、4月のアジア選手権で準優勝とSSより格の下がるグランプリゴールドの大会で取りこぼしたことが響いた。“勝たなければいけない”との焦りもあった。「そこが経験の浅さだった」と早川は悔やむ。「レース最終の3、4月が本当は勝負だった。“なぜここで勝てなかったのか?”という思いでのインドオープンでした」。気持ちが切れかかった中では、強豪ひしめくSSは勝ち抜けなかった。

 ロンドンを逃したことで早川の視線は“日本一”の1点に絞られた。過去3度、決勝で苦杯を舐めている全日本総合での優勝だった。早川と遠藤は8月下旬に中国スーパーリーグに参戦した。トップレベルの選手たちと練習や試合をし、経験を積んだ。9月の中国マスターズ(SS)では、準優勝。SSで初めて決勝の舞台に立ったことで、自信を掴んだ。世界ランキングも徐々に上げ、12月の全日本総合の時点で5位に浮上していた。

 迎えた12月の全日本総合で早川&遠藤組は、3戦連続のストレート勝ちで準決勝まで進むと、ロンドン五輪に出場した佐藤&川前組をファイナルゲームの末、撃破した。決勝は4連覇を目指す平田&橋本組と対戦した。数野と組んだ09年、遠藤とは1年前にストレートで敗れた相手だった。

 第1ゲーム、序盤をリードしたのは王者組だった。4点を先制され、追いかける展開となった。それでも慌てることはなかった。「前年の決勝は内容も良くなかった。この年は出だしから“楽しんでいこう”と遠藤と話していました」。中盤にシーソーゲームに持ちこむと、15−15から5連続ポイントで突き放した。結局、このゲームを21−16で取り、流れを掌握した。第2ゲームは中盤まで競ったが、10−9から、一気に7連続得点した。その後、早川&遠藤組がチャンピオンシップポイントを掴むと、20−16の場面で早川がヘアピンショット(ネット際に小さく落とす打球)でネット際に落とす。体勢を崩された橋本の返球は手前のネットを揺らした。この瞬間、早川はコート中に響き渡る雄叫びを上げ、両手でガッツポーズ。喜びの感情を爆発させた。

「全日本総合で優勝するのが目標だったので、うれしかったです。それに全日本総合で優勝していないのに海外に出るのが自分の中では、どこか引け目がありました。それをしないことには、“代表として自信を持って試合に出られないのでは?”と思っていた。オリンピックを目指す自分に自信をつけるためにも、“日本一”という肩書きが欲しかったんです」。早川にとっては“4度目の正直”で、ついに手にした日本一のタイトルだった。

 “壁”を越えるために必要な武器

 念願の日本一を手にした早川&遠藤は、その年のSSファイナルで準優勝を果たした。翌年はSSで安定した成績を残し、全英オープンと中国マスターズで準優勝。国内でも全日本総合で連覇を達成し、日本のトップダブルスの座を守り続けている。

 今年5月にはトマス杯(インド・ニューデリー)を制したことにより、団体では“世界一”の称号を手にした。だが、個人では国際大会で大きなタイトルを掴んでいない。SSでは過去5度、決勝の舞台を踏んだものの、いずれも表彰台の頂上には立てていないのだ。今月は世界選手権(デンマーク・コペンハーゲン)、9月はアジア競技大会(韓国・仁川)とビッグイベントが続く。2年後のブラジル・リオデジャネイロ五輪に向けて、格好の腕試しの機会である。本人もその気は十分ある。「(世界選手権は)昨年がベスト8だったので、そこはどうしても越えたい」

 昨年の世界選手権(中国・広州)ではロンドン五輪金メダルの中国ペアに敗れ、ベスト8だった。今回、最低限の目標であるベスト8を越えると、順当なら準決勝で昨年の優勝ペアであるヘンドラ・セティアワン&モハマド・アッサン組(インドネシア)とぶつかる。世界ランキング2位の同ペアとは、今年の全英オープン決勝も含め、接戦を展開しているが6戦全敗。このペアが、早川&遠藤組とっては、越えなければいけない壁のひとつだ。

 そのために、早川自身に足りないものは「自信」だと考えている。「気持ちを前面に出さなきゃ。引いても何も始まらない」。相棒である遠藤も同様の意見を口にし、こう語る。「リードされていても“自分たちならできる”という気持ちを持っていないといけない。競った時に“やばい”と焦っていては畳みかけられてしまう」。そのためには絶対の武器が必要だ。早川と遠藤の理想は、攻撃的とされるフォーメーション“トップ&バック”という前後の関係をとる型だ。

 前衛でのプレーを得意とする早川は「僕がどう球づくりをできるかにかかっていると思います。遠藤は打たせたら世界トップレベル。それをどう僕が相手の前衛と競り合って、アイツの良さを引き出せるか。そうしないと勝てない」と自らの役割を説明する。遠藤は強烈なスマッシュなどのダイナミックなプレー。これを引き出せることが、早川の巧さであり、長所だ。

 一方で早川の武器を「レシーブ能力の高さ」と挙げるのは日本ユニシスの坂本修一監督である。「彼は相手がネット際に落としてきても、それをもう1回前方に落とし返すことができる選手。手首が強いので速い球にも押されず、しっかりとコントロールできる。相手をよく見ていますし、プレーにも安定感がありますね」。レシーブ(receive)は一般的には守りの技術に見られがちだが、攻守の切り替わりが激しいバドミントンにおいては、どちらの側面も持つ。早川は「相手が決めにきたシャトルを返すのは楽しい。それをクロスにリターンし、相手が裏をかかれ“クソーッ”と悔しそうな顔をしたら、すごく気持ちいいです」と、レシーブを“カウンター攻撃”の武器として魅力を感じている。

 武器に磨きをかけ、その自信が確信となれば“壁”を越える日は、そう遠くないはずだ。その時、早川の歓喜の雄叫びがコート中に響き渡るだろう。日本人男子で五輪のメダルを胸に掛けた者はまだいない。世界選手権でも銅メダルが過去1組だけ。“ムードメーカー”の彼が日本の歴史を変えることを期待したい。

(おわり)
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早川賢一(はやかわ・けんいち)プロフィール>
1986年4月5日、滋賀県生まれ。小学1年でバドミントンを始め、5年時に全国小学生選手権大会で優勝した。中学以降は、主にダブルスの選手として活躍。中学、高校でも全国制覇を経験した。日本大学に進学後は、2年時から全日本学生選手権大会の1学年上の数野健太とのペアで男子ダブルスを2連覇。4年時には全日本総合選手権大会の同種目で準優勝を果たした。09年に日本ユニシスに入社し、同年日本代表入りする。10年から同学年の遠藤大由(日本ユニシス)とペアを組み、12年の全日本総合では男子ダブルスで初優勝。同年のスーパーシリーズファイナルで準優勝の好成績を収めた。13年は全英オープンの男子ダブルスで準優勝し、全日本総合では男子&混合でダブルス2冠を達成。今年5月のトマス杯では、キャプテンとして日本の初優勝に貢献した。BWF男子ダブルス世界ランキング3位(8月21日現在)。177センチ。右利き。

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(文・写真/杉浦泰介)

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