5日、Hondaは都内本社で会見を行い、2008年限りでF1(フォーミュラ1)から撤退することを表明した。Hondaは2000年から第3期F1活動として、B・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)と共同開発という形でF1に復帰、06年からはHondaの100%出資チームとして参戦していた。創業者の故・本田宗一郎の意志を継ぎ、チャレンジスピリッツの象徴として活動を続けてきたHonda F1の歴史に終止符が打たれた。
(写真:撤退発表会見に臨むHonda福井社長(右))
 会見に臨んだ福井威夫代表取締役社長は「08年をもってF1レース活動から撤退することを決定した。サブプライムローン問題に端を発した金融危機、それらを伴う信用危機、実体経済の急速な後退によりHondaを取り巻くビジネス環境の悪化しており、将来への投資も含め、経営資源の効率的な再配分が必要との認識からF1活動からの撤退を決定した」と苦渋の決断に至る経緯を語った。

 Hondaが撤退を決定したのは昨日のこと。栃木にある研究所やヨーロッパの拠点であるロンドンで、来季の準備を進めていたエンジニアやドライバーにとっても寝耳に水の話だった。「09年への期待が大きかっただけに、撤退という決定は残念。10、11月から世界的に自動車業界を取り巻く状況は一変した。9月までなら(撤退という)こういう決断はなかった」と、経営陣としてもここ数カ月の間に世界中を襲った金融危機が撤退の原因だったことを強調、来季からのF1でのレギュレーション変更や北米でのグランプリ開催が消滅したこととは無関係であると説明した。

 第3期F1活動としてHondaが復帰したのは00年。第2期(83〜92年)のようなエンジン供給のみの参戦ではなく、車体の開発やチームマネージメントを含めた形での参戦だった。共同開発をしてきたB・A・Rに100%出資したのが06年。念願の「オールHonda」としてグランプリを戦ってきた。常時優勝を争うチームを目指してきたが、グランプリ優勝は06年ハンガリーグランプリでの1度のみ(ドライバーはジェイソン・バトン)。第2期にはシーズン16戦中15勝(88年)という不滅の記録も打ち立てたHondaにとっては、満足のいく結果とは言えなかった。結果的に最後のシーズンとなった08年は、コンストラクターズ部門11チーム中9位と低迷していた。

 自らがモータースポーツ分野出身である福井社長は、第3期F1活動について「(第2期から8年の)中断していた段階から、最先端の技術に追いつくことができなかった。タイトルを争えるチームに追いつく努力はしていたが、(彼らに)追いつけない理由さえもわからなかった。04、05年にポールポジションを取ったにも関わらず勝てなかったことが一番悔しい」と振り返り、思ったような成果が上げられなかった要因を語った。

 過去2回の活動中断では「休止」という言葉を使ってきたHondaだが、今回は休止ではなく「撤退」という言葉を用いた。初参戦から44年、一時代を作ったHondaがついに世界最高峰の舞台から姿を消す。世界同時不況の中、伝統のある企業が撤退したことにより、F1界全体や多くの自動車メーカーに少なくない影響を及ぼしそうだ。