オランダのロッテルダムで開かれている世界柔道選手権は27日、2日目を迎え、女子52キロ級の中村美里(三井住友海上)が決勝でヤネト・ベルモイ(キューバ)に優勢勝ちし、初の金メダルを獲得した。中村は昨年の北京五輪は銅メダルで、念願の世界大会制覇となった。日本勢が同階級で優勝したのは、99年バーミンガム大会の楢崎教子以来10年ぶり。
▼二宮清純特別コラム「女王への道程」を掲載
 北京での悔しさから1年。頂点への道のりは険しいものだった。直前のスペイン合宿で左ひざの前十字靱帯を損傷した影響か、思うように一本を奪う柔道ができない。初戦の2回戦、3回戦は優勢勝ち。準々決勝の何紅梅(中国)戦では延長の末、相手が指導を2回もらったことで辛くも勝利した。

 準決勝もチョ・ソンヒ(北朝鮮)の反則により勝ち上がった中村は、決勝で北京五輪銀メダルのベルモイと対戦。残り1分30秒を切ったところで大外刈りが決まり、技ありを得る。その後も最後まで守りに入ることなく戦い抜き、勝利を手中にした。

 しかし、内容に納得がいかなかったのか、中村は畳の上で喜ぶそぶりひとつ見せない。ようやく笑顔が出たのは表彰式でメダルを授与された時だった。あくまでも20歳の目標は3年後のロンドン五輪での金メダル。今回の優勝は彼女にとって、悲願達成への序章に過ぎない。

 また、女子57キロ級の松本薫(帝京大)は準々決勝で右手を負傷。勝ち進んだ準決勝ではテーピングを巻いて強行出場したが、あえなく一本負けを喫する。3位決定戦でも右手が使えず、わずか14秒ですくい投げを打たれ、4位に終わった。
 男子73キロ級の大束正彦(旭化成)は釣り込み腰で一本を許し、初戦敗退だった。


 女王の道程 中村美里

 滅多なことでは笑顔を見せない。キリッと真一文字に結んだ唇が彼女の志の強さを表している。
 中村美里は北京五輪で日本柔道初の10代での金メダルを狙っていた。
 昨年の夏、彼女は19歳だった。10代での金メダルとなれば、五輪では1992年バルセロナ五輪の岩崎恭子(女子平泳ぎ)以来。マスコミの視線が集中した。

 結果は銅メダル。準決勝で金メダルを獲った北朝鮮のアン・グムエに敗れた。
 組み手で劣勢になり、指導を受けた。それが命取りとなった。
「悔しかった」
 開口一番、中村は言った。
「力が強いというのは聞いていたんですけど、対戦したことのない相手だったので……。実際に戦ってみて、思ったよりも力が強いなと……」

――力が強いというのは引く力、抑え込む力?
「抑え込む力です。ものすごい圧力を感じました。これまでそんなに組み手で負けたことはないんですけど、なかなかいいところを持たせてもらえなくて……。最後まで相手のペースで戦ってしまった。それが反省材料です」

――指導は「エッ?」という感じでしたか?
「いや、来るなと思っていました。自分の柔道ができていなかったので……」
 中村が所属する三井住友海上女子柔道部監督・柳澤久監督が話を引き取る。
「私は左同士の戦いなのでガップリと組んで、おもしろくなると思った。でも組んだ瞬間に相手の強さが分かったと思うんです。同じウエイトでもアン・グムエの体には強さがあった。体幹が強いんです。組んだ時にグイッと引っ張られて“これはヤバイ”と思ったんじゃないかな。
 それでも後半はよく攻めたと思います。副審のひとりがアンに対し、指導のジェスチュアをしていましたからね。最後は経験の差が出てしまったということでしょうか」

 準決勝で負けた中村は3位決定戦に回った。相手は韓国の金京玉。3度戦って、これまで一度も負けたことがない。決してやりにくい相手ではない。
 問題はモチベーションだ。準決勝での敗北を引きずらずに畳に上がれるのか。
 心配は杞憂に終わった。開始50秒で左小外刈りで技ありを奪うと、そのまま上四方固めに移行し、一本勝ちをおさめた。
 4年後のロンドンにつながる一本勝ちだった。

――よく気持ちを切り替えましたね。
「切り替えというより、初戦、2戦目、3戦目と自分の柔道ができていなかったので、このままだったら悔いが残ると思って、思い切りいったんです。その結果が銅メダルにつながったんだと思います」

――初めての五輪、プレッシャーはありましたか?
「自分の中でそういうものはなかった。しかし思うほど体は動かなかったことを考えると、見えない部分でそういうものがあったかもしれません」
 無口だが無愛想ではない。言葉を選んで淡々と話す。
 眼差しは涼しげで、凛とした気配をかもし出す。

 少女の頃から男まさりの性格だった。女の子同士で遊んだ記憶がない。
「保育園の頃、他の女の子は部屋の中でお絵かきやママゴトをしていた。だけど私だけは男の子に交じってスーパーマンごっこをやったり、外でサッカーをしていました」
 アントニオ猪木の大ファンだった父親の影響で小学生の頃には格闘技の道場に通いたいと思うようになった。
「最初に見に行った空手道場はいいなと思ったのですが、母が“一応、女の子だから蹴りだけはやめて”って。それからもいろいろな道場を見に行ってみたのですが、これというものがなくて……。そんな時、友達のお父さんが警察官で少年柔道を警察署で教えていた。それで私も一緒に通うようになったんです」

 中学2年で全国中学校大会44キロ級優勝、アジアジュニア選手権優勝。素質は際立っていた。
 中学時代の印象について、柳澤はこう語る。
「最初にウチに来たのは中2の時かな。あんまり最初はこれといった記憶がない。
 で、ある時、高校生に交じってドッジボールをやらせたんです。普通、柔道選手って球技はうまくないんですよ。ボールも投げられない者もいる。
 ところが彼女は抜群にうまかったね。後で聞いたら野球もやっていたんだと。とにかく投げる、捕る、走る。もう何でもできる。中学生の頃から運動能力は抜群でしたよ」

 高1で講道館杯優勝(48キロ級)。福岡国際女子柔道では世界王者のヤネト・ベルモイ(キューバ)らを破り、谷亮子以来の“16歳覇者”となった。
 多少の挫折はあったものの、ここまではほぼ順風満帆の柔道人生を歩んできた。
 しかし、昨年12月に行なわれた嘉納杯東京国際では西田優香に旗判定の末に敗れ、2連覇を逃した。
「先に攻められた。悔しい」
 そう言って中村は唇を噛んだ。

 ロンドンを目指すに当たり、足りないものは何か。
「試合の中での変化というか、たとえば相手の力が予想していたよりも強かった場合、違う方向で対処しなければならない。しかしオリンピックでは力に力で対抗してしまった。本当は相手の力を逆に利用しなければならないのに……」

 現在は52キロ級。19歳と言えば、食べ盛り。減量は苦にならないのか。
「今は減量はしていません。48キロ級の時には目の前にケーキとかあったら食べちゃいましたけど、なかったら食べませんでした。ただ試合後にはケーキ食べ放題の店によく行きましたよ」
 初めて小さな笑みがこぼれた。
 この春、20歳になる。

<この原稿は2009年2月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

>>三井住友海上女子柔道部・横澤久監督インタビュー「中村美里、金メダルの条件」はこちら(2009年1月掲載)