9日、北京五輪男子バレーボール日本代表の荻野正二(サントリー)が今季限りでの引退を表明した。荻野は福井工大福井高から88年にサントリーに入団。1992年バルセロナ五輪に出場し、主力の一人として6位入賞に大きく貢献した。2005年からは主将として全日本を牽引し、昨年は男女通じて最高齢の38歳で4大会ぶりの五輪出場を果たした。
 その荻野を主将として7季ぶりに全日本へ呼び戻したのが、植田辰哉バレーボール全日本男子監督だ。果たして植田監督がベテランの荻野を主将に任命した理由はどこにあったのか。その真相を当サイト編集長・二宮清純が直撃した。
二宮: 昨年は1992年のバルセロナ五輪以来4大会ぶりの五輪出場を果たし、男子バレーボール界にとっては躍進の年となりましたね。

植田: はい。ただ五輪では明確な目標設定をすることができなかったことで全敗を喫し、指揮官としては非常に反省しています。

二宮: 北京五輪では当時38歳の荻野正二選手が主将としてチームを牽引しました。正直、代表12名の中に大ベテランの荻野選手が入っていたのは驚きました。やはり彼は全日本にとって欠かせない存在だったということでしょうか?

植田: 力で言えば、ぎりぎりで北京五輪にたどり着いたというところだったと思います。2005年に彼を招集したときには、まだまだやれるなと感じました。実際、トレーニングでも若手には負けていなかったんです。一番最初の合宿で限界まで腕立てふせをやらせたことがあるのですが、15回でもう根をあげる選手がいる中、彼は150回やったんです。腹筋をやらせても荻野がまた1番。荻野とはバルセロナ五輪で一緒に戦った仲ですが、その頃の時代の選手は厳しいトレーニングをしてきているので強いんですよね。他の選手にジャンプ力では劣るんですけど、基礎体力はありましたね。だからこの年齢まで現役を続けてこられたんだと思います。でも、やっぱり36歳、37歳と年齢を重ねるたびにやはり衰えてきていましたね。特にオリンピックイヤーの昨年、最初に招集をかけたときには、相当力が落ちているなと感じました。

二宮: それでも荻野選手を代表に選んだ理由とは?

植田: 私が監督するうえでキャプテンを誰にしようかと考えた時、一番最初に頭に浮んだのが荻野でした。男子は16年間、五輪に出場していませんから、誰も五輪というものを知らないんです。ですから、唯一バルセロナ五輪を経験している荻野の存在は重要でした。それと、彼自身を見ていても完全燃焼していないなと感じてもいたんです。
 キャプテンに任命した際、荻野にはこう言いました。「北京までと言ったらオマエ自身がくたびれてしまうだろうから、1年1年が勝負だと思って、とにかく身を粉にして頑張ってほしい」と。本人もおそらく毎年「今年で最後だ」と思いながらやってきていたと思います。ところが、05年から実績を残し続け、北京五輪最終予選では彼自身が出場権がかかった最後の1本を取ってしまいましたからね。05年の時には私自身、荻野がまさか北京五輪までもつとは思っていませんでしたので、よくもったなぁと。

二宮: 「荻野さんが頑張っているんだから、自分たちも」とチームに好影響を与えたりもしたのではないでしょうか。

植田: それは多分にあったと思いますね。ですから、北京五輪が終わって新たにチームづくりをする際、「これまでチームを引っ張ってくれていた荻野がいない中、果たしてチームはまとまるのだろうか」という不安はありました。私がキャプテンを務めた92年のバルセロナ五輪後、チームがガタッと崩れてしまった経験がありましたからね。その二の舞になるんじゃないかと……。それほど荻野の存在は全日本にとって大きかったんです。でも、今は宇佐美大輔が新キャプテンとなって頑張ってくれています。私としては2012年のロンドン五輪まで彼にキャプテンを任せたいと思っています。

<『潮』(2009年12月号)に植田監督のインタビュー記事が掲載されています。こちらもぜひご覧ください。>