日本の女子バレーボールが好調だ。現在、開催されている世界選手権では1次リーグを全勝で通過。続く2次リーグでも2位につけ、32年ぶりのメダル獲得も夢ではない。しかし、今からちょうど10年前、女子バレーはどん底に喘いでいた。金メダルに輝いた東京五輪以来続いていたオリンピックへの出場権を逃してしまったのだ。そんなお家芸の大ピンチに、ひとりのベテランが代表のコートに戻ってきた。それがバルセロナ、アトランタと2度の五輪を経験した吉原知子だった。彼女がキャプテンを務めた日本はアテネ五輪の予選を突破。2大会ぶりの出場に大きく貢献した。鮮やかな復活劇の裏で、吉原はどんなリーダーシップを発揮していたのか。当HP編集長・二宮清純が訊いた。
二宮: 吉原さんは1996年のアトランタ五輪後、協会が若返りの方針を打ち出したことで7年間、代表から遠ざかっていました。その間、女子バレーはシドニー行きを逃し、低迷が続いていた。監督に就任した柳本晶一さんから代表復帰の話があった時にはどんな気持ちでしたか?
吉原: 責任をものすごく感じましたね。それと同時に「私、いつ、そんなに若返ったっけ?」というひねくれた気持ちもありました。「もし、これで悪い結果になったら、全部、私に責任を負わせるわけ?」とネガティブな感情を持ったのも事実です。でも、やらないで後悔するよりも、やって後悔したほうがいい。それに、「やるからには絶対よくしてやる」との覚悟もできていました。逆に、それが今まで代表から外れてきたのを見返すことにつながると思っていましたから。

二宮: でも、本当はキャプテンまで引き受けるつもりはなかったそうですね。
吉原: 記者会見の前日に電話がかかってきて、「キャプテンとして来てもらいたい」とお願いされたのですが、「それはできません」と一度、お断りしました。「とりあえずキャプテンはいいから来てくれ」という約束で、会見場に行くと「今回、キャプテンをしていただく吉原さんです」と(苦笑)。たくさん報道陣がいる前で「違います」とも言えない。会見が終わってから「話が違う」と怒っても、もう遅かった……。

二宮: 当時は栗原恵選手や大山加奈選手、木村沙織選手といった若手も多く代表に入ってきました。世代間のギャップは感じませんでしたか?
吉原: 最初はありましたよ。どうも私は若い選手たちにとっては怖いオーラが出ていたみたいで(苦笑)、お互いどう接したらいいのか分からなかったんですね。その解決策は簡単なことだったんです。とにかく私のほうから話しかけてコミュニケーションをとる。テレビドラマの話とか何でもいいから1日何十回でも話しかける。それを3、4日繰り返すうちに、今度は向こうから「ねぇ、知さん、昨日のドラマ見ました?」とか話しかけてきてくれた。そうやってお互いに溶け込んでいけたので、ひとつめのハードルは越えたなと思いました。

二宮: まず自分から目線を下げて接したわけですね。吉原さんが日立に入社して、代表入りした当時とは上下関係のあり方も変容していたと?。
吉原: やはり上下関係が崩れていた部分はありましたね。女の子のグループによくありがちなんですけど、仲のいい人間だけで固まってしまって肝心なことをみんなの前で言わない。そういう雰囲気がものすごくイヤでした。だから、チームの中で約束事を決めたんです。

二宮: 具体的には?
吉原: とにかくコートに立ったら、どんな状態であっても100パーセントを出しきること。他人のことを陰でこそこそ言わないこと。目標を見失わないこと。この3つを全員の了解を得て、約束しました。最初はどうしても遠慮の塊で、表面上の付き合いだったんですけど、徐々にコートの中では言いたいことを言いあっても、練習が終わったら後腐れなし、という関係になっていきました。

二宮: そんな柳本ジャパンの要になったのがセッターの竹下佳江選手です。彼女はシドニー五輪で予選落ちした際に戦犯扱いされていました。司令塔としての自信を取り戻すために、どんな接し方をしましたか?
吉原: 彼女は予選で負けた時に、身長が低いことをかなり言われてコンプレックスを持っていました。でも、そこで悩んでいてもしょうがない。だから、「小さくてもできること、小さいからできることを100パーセントやりきることが一番大事なんじゃないか」と話をしました。彼女とはセッターとセンターの関係だったので、朝早く4時ぐらいから練習に引っ張り出して付き合わせました。大変だったと思いますけど、それを繰り返しているうちにチームの中でも一番理解して動ける存在になってくれた気がします。

二宮: セッターとセンターの関係は野球のピッチャーとキャッチャーみたいなものだと思うんです。ベテランのピッチャーが若いキャッチャーを育てることもあれば、ベテランのキャッチャーが若いピッチャーを育てることもある。いいチームは、その連携がうまく続いています。以前、名セッターの中田久美さんと対談した際に、こんな話を聞きました。「スパイク賞を獲らせて自信をつけるために、先輩の大林素子ではなく、あえて吉原に打たせるようにしていた」と。
吉原: 当時はそんなことは全然考えないで、打たせてもらってましたね。とにかく打たせてもらって自信がついてくると、競った展開でも「大丈夫かな、私」と不安だったのが、「私に持ってきてください、絶対決められます」というくらい強気でいられるようになった。そういう意味で、私は久美さんに育てられた人間だし、今の私があるのは久美さんのおかげかなと感じています。

二宮: 中田さんは厳しい先輩だったでしょう?
吉原: 怖かったですね。トスについていけなくて「100万年遅い」と叱られたこともあります。久美さんとしても、江上(由美)さんが抜けた後のセンターとして私を育てたいという気持ちがあったのでしょう。練習が終わっても、一緒の部屋で寝泊まりしながらビデオを見て、「由美さんはこうやっていた」といろんなことを伝授してもらいました。今度はそれを竹下がセッターの時には逆に伝えるようにしていましたね。

二宮: そう考えた時に、やはり96年のアトランタ五輪の後に一気に代表の若返りをはかったのは失敗だったと言わざるを得ませんね。技術や戦術の継承が途絶えてしまった……。
吉原: 振り返ってみれば、そうなりますね。あそこで1度、すべてが切れてしまった。7年振りに代表に戻ってきた時に、最も感じたのはモチベーションの違いです。私たちが若い頃の代表は「何が何でもメダル」が暗黙の了解でした。ところが、復帰してみると「アジアで勝てればいいんじゃない」といった生ぬるい雰囲気が漂っていたんです。
 練習でも、かつては甘いボールが来たら、セッターは一歩も動かない最高の場所に返すのが当たり前でした。ところが、当時はセッターが1、2歩動く範囲だったらオーケーという感じになっていたんです。ダイレクトボールで絶対得点できるチャンスで決めきれなくても周りから飛んでくる声は「OK、OK」……。

二宮: ワンプレーに対する厳しさが失われていたと?
吉原: 「OK」なわけないでしょう? それで次のプレーに進めるわけがない。だから「お互いもっと厳しくやろうよ。勝ちたいんでしょう? できないんだったら勝てないよ。できないんだったら練習するしかないでしょう?」と話をしました。練習で手を抜いて、試合の大事な時にびびってミスするのが一番イヤですから。

二宮: 吉原さんたちの頑張りもあり、日本はアテネ大会で再び五輪の舞台に戻ってくることができました。その後、引退されたわけですが、一仕事を終えたという実感はありましたか?
吉原: 昔の良いところを後輩に繋げたとも、仕事をしたとも思っていません。ただ私自身、アトランタであのまま代表が終わるのは、自分の中で区切りがつかなかったと思うんです。男子を見てもわかるように一度、五輪の切符を逃すと、そう簡単には復活するのは難しい。でも、すぐに次の五輪でみんながその舞台を経験したことは大きかったのではないでしょうか。そして、五輪でメダルを獲ることの難しさも分かったはずです。個人的には一番欲しいものが五輪のメダルだったので、その夢だけは叶わなかった。力不足を感じた最後の大舞台でもありましたね。

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