春場所の中止が決まった日曜日、私は宮崎にいた。ホークスのキャンプ地・生目の杜で王貞治球団会長に挨拶すると、温厚な王さんが珍しく顔を紅潮させて言った。
「大相撲の八百長問題はどうなの? プロ野球だって“黒い霧事件”を厳しい処分で乗り切ったんだ。(相撲界も)内部できっちり処分すべきだと思う。それができないのなら…」
 そこまで言って次の言葉を飲み込んだ。「明日はないよ」。きっと、そう続けたかったに違いない。

「ガバナンス(統治)の整備に関する独立委員会」(奥島孝康座長)がまとめていた暴力団排除対策案から八百長行為の禁止と罰則に関する規定が消えたという話を聞いたのは昨年7月末のことだ。「そもそも八百長はない」と相撲協会の執行部から突き上げられ、腰砕けになってしまったという。

 それを受けて昨年の本紙8月4日付の紙面で私はこう書いた。<身に覚えのないことなら堂々と明記すればいい。相撲協会執行部は、いったい何を恐れているのか。><これが本当ならおかしな話だ。「痛くもない腹をさぐられないためにも、どうぞ対策案に盛り込んでください。これで世間の疑惑も少しは晴れるでしょう」と協会自ら申し出るのが筋だ。><(八百長に対する)罰則規定の厳しさこそはガバナンスの一丁目一番地であり、世間の信頼を得る上での担保になっていることを忘れてはならない。>
 残念なことに、半年前に書いたことを改めて繰り返さなければならない。この間、協会はいったい何をやっていたのか。

 しかし、事がここまで明らかになった以上、過去の不作為をいくら問うても虚しい。疑うべきは疑う。罰するべきは罰する。それでしか八百長に対する抑止力は生まれまい。「無気力相撲」か否かを判定する相撲競技監察委員会の全面改革などは明日にでもやるべきだ。もし「八百長も含めて大相撲」などと開き直る者がいるのであれば、どうぞ公益法人の資格を返上してからにしてほしい。

 ヨハネによる福音書にこうある。「罪なき者、石を持て打て」。イエス・キリストの言葉だ。我は潔白なり。悪いのは八百長を“自白”した3人だけだと、いったい何人の力士や親方が胸を張って言えるのか。「国技」改め「黒技」ではシャレにもならない。

<この原稿は11年2月7日付『スポーツニッポン』に掲載されています>