スノーボードのアルペン種目は、長野五輪で正式種目に採用されて以降、パラレル大回転の1種目のみだった。しかし来年2月のソチ五輪からはパラレル回転が新たに追加される。この競技の日本の第一人者である竹内智香(広島ガス)は「4年に1度の五輪。8年分の価値があるように感じています」と歓迎する。2種目に出場を目指す彼女にとっては、メダル獲得のチャンスが2倍に増えたからだ。昨シーズンはW杯初優勝を果たし、総合でも3位に入った。手応えを十分に掴んで、五輪シーズンを迎えている。
(写真: Photo By ORIBER KRAUS)
 パラレル大回転とパラレル回転は、雪上に設置された複数の旗門をクリアしながら、斜面を滑り降りる競技だ。当然、滑りの巧さ、そして速さが求められる。「調子が良いと、どんどん攻めていって、リスクが高い分、タイムも出る」という竹内は攻撃的な滑りを得意とする。滑りの技術に関しては、世界に対しても引けを取らないとの自負がある。全日本スキー連盟(SAJ)のナショナルチームでも強化指定Aランク。SAJが設ける選考基準もクリアし、2002年のソルトレイクシティ大会から続く五輪出場も確実視されている状況だ。

 出ることから勝つことへ、意義の変わった五輪

 竹内は北海道旭川市で生まれ、冬になれば雪が積もり、スキーをやるのは「当たり前」の環境で育った。そんな彼女の小学校時代からの夢は「オリンピックに出ること」だった。とはいえスキーヤーとして、五輪を目指していたわけではなく、漠然と思い描いていたものだった。「テレビで見るオリンピック選手やメダリストがカッコいいなと思っていただけだと思います。何の種目で出ようとかは何も決まっていませんでした」

 家族と一緒にスキーを楽しんでいたある日、ゲレンデでスノーボードをやる人を見かけた。「あれ、なんだろう?」。竹内の好奇心がくすぐられた。元々、スキーのアルペン競技にも興味があったこともあり、小学6年の時、スノーボードショップへ行くと、フリースタイルではなくアルペンのボードを勧められた。もし、ショップの店員に勧められるきっかけがなければ、アルペンのスノーボーダー竹内は生まれていなかったかもしれない。

 長野で五輪が開催されたのは、竹内が中学2年の時だった。テレビで見ていた竹内の目にとまったのは、女子大回転に出場したカリーヌ・リュビ(フランス)だった。この時、同種目の初代金メダリストとなった彼女のスター性に惹かれ、自分の目指す場所を「五輪」と明確にしたのだった。

 それから本格的に競技を始めるようになり、高校ではスノーボード部に入った。1年時に日本一となり、2年時には国際大会でも総合優勝を果たした。世界ジュニアで4位入賞を果たすなど、着々と実力をつけ、3年時にはソルトレイクシティ五輪に出場を果たす。参加資格のFISポイントランク35位以内にギリギリで入り、小さい頃から憧れていた大舞台に立つことができた。

「長野オリンピックを見てから、ソルトレイクに出たいということしか考えていなかった。その後は、次の世界を見てみたいと思っていました。スノーボード選手として、五輪に出られれば、それでいいかなという程度だったんです」

 足を踏み入れるまでは、五輪の舞台が目標でありゴールだった。結果は22位で予選落ち。「オリンピックを見られたらいいなという感じで行ったのですが、実際に経験してみると、本当にすごい世界でした。そこでオリンピックの魅力というか、楽しさを知ることができましたし、悔しさもありました」

 共に日本代表として出場した4歳上の先輩・飯田蘭が日本人として初めてトップ16に入ったことも、竹内の気持ちを揺り動かした。「先輩が決勝(トーナメント)に行く姿を見て、“日本人も世界で戦えるんだ”と感じられました。だから、その次を目指そうと思えたんです。“(ソルトレイクは)出られたらいいな”というところから始まったオリンピックでしたが、終わった時には、“次は自分も決勝で活躍したいな”と思うようになっていました」
 ゴールだと思っていた場所は、新たなスタート地点となった。

 涙の敗戦、日本を出る決意

 その後の竹内はW杯に定期参戦するようになり、世界選手権にも出場した。彼女が初めて世界の舞台で表彰台に上ったのは、ソルトレイクシティ五輪から2年後、04年2月に札幌の真駒内で行われたW杯だった。それは五輪、世界選手権、W杯を通じて、アルペン種目で日本人初のメダル獲得だった。国内で行われた“ホーム戦”ではあったが、海外を転戦していた竹内にとっては、年に数回滑る程度のコースだ。加えて準々決勝ではソルトレイクシティ五輪の金メダリストのイザベル・ブラン(フランス)に勝つ快挙を見せたのだ。準決勝で敗れたものの、3位決定戦を見事勝利し、銅メダルを獲得した。

 以降は、世界大会で入賞常連となり、周囲の期待も高まっていった。迎えた06年のトリノ五輪。予選を30人中9位で通過した竹内は、決勝トーナメント1回戦でアルペン王国オーストリアのドリス・ギュンターと対戦した。ギュンターは2年前の札幌大会準決勝で戦った相手だった。雪辱を果たすべくレースは、1本目はわずか0秒1、2本目は0秒24の差で、またしても敗れてしまった。

 入賞まではあと一歩届かなかったが、9位は日本人過去最高位だ。しかしレース後のインタビューで竹内は、涙を流しながらこう答えた。
「1番でなければ、全てが負けです。何番になっても一緒だと思う」

 それには、悔恨の思いがあった。「ゴール後に自分が決勝トーナメント進出を目標にしていたことに気付いたんです」。涙と共に“なんで勝つことを目標にしなかったんだろう?”という自責の念が込み上げてきた。

 そしてトリノ五輪後、彼女は一大決心をした。日本を離れ、海外を拠点にすることに決めたのだ。とはいえ、受け入れ先はなかなか決まらなかった。スイス、イタリア、フランス、オーストリア、カナダの5カ国のチームと交渉したが、どの国も彼女の申し出に首を縦には振らなかった。それでも竹内は諦めなかった。「性格的に、やりたいと思うことはできると考えるタイプ」という彼女は、“断られてもどうにかなるかな”というポジティブ思考に支えられていた。竹内は交渉した国の中でも真剣に取り合ってくれたスイスに対して粘り強く交渉し続けた。その熱意が結実し、彼女は07年8月からスイスへと旅立つこととなった。この単身武者修行が竹内を大きく変えていくことになる――。

(後編につづく)
(第7回は12月16日に更新します)

竹内智香(たけうち・ともか)プロフィール>
1983年12月21日、北海道生まれ。2歳からスキーを始め、12歳でスノーボードに出合う。14歳の時にスノーボード・アルペン競技を本格的に開始すると、16歳でナショナルチーム入りを果たす。18歳でソルトレイクシティ五輪のパラレル大回転に出場。04年のW杯札幌大会では、日本人初の表彰台となる3位に入る。トリノ五輪では9位と、入賞まであと一歩と迫った。09年の世界選手権では4位に入り、08-09シーズンはW杯総合3位。バンクーバー五輪はメダルを期待されたが13位に終わった。12-13シーズンではイタリア大会でW杯初勝利を収めるなど、2度目の総合3位に入った。4度目の五輪出場を目指すスノーボード・アルペン競技の第一人者。
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(競技写真提供:竹内智香)

(文/杉浦泰介)