内川聖一(福岡ソフトバンク)が5月9日、2000本安打を達成した。内川は大分工時代から評判の強打者だった。しかし、度重なる故障に悩まされレギュラー定着には至らず。才能が開花したのはプロ入り8年目だった。ミートポイントを後ろに置いたことでプルヒッターから広角打者になった内川は2008年シーズン、初の首位打者に輝いた。彼が積み上げてきたヒットのベースには緻密なバッティング理論がある。安打製造機に転身したばかりの2008年の原稿でその理論に触れよう。

 

 <この原稿は2008年10月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 

 多くのプロ野球のバッターの一日は新聞の打撃成績表に目を通すことから始まる。

 

 自らの名前が一番上にあるのと下の方にあるのとでは気分的にも違うだろう。

 

 横浜の内川聖一は6月8日の北海道日本ハム戦で規定打席(所属球団の試合数×3.1)に到達し、3割9分9厘というハイアベレージでセ・リーグの打撃成績トップに躍り出た。以来、一時期を除いてずっとリーディング・ヒッターの座をキープしている。

 

 絶好調の裏には、どんな理由があるのか。

「昨年まではただガンガン打っていただけだった。それが今年から自らのポイントをしっかりおさえて練習に入るようにしたんです。

 

 具体的に言うと右ヒジと右足の動きを一緒にした。こうすると右足が(内側に)入った時に右手の勢いが保てるんです。体の内側にエネルギーを貯めることでヘッドの走りがよくなった。しかもポイントを後ろに置き、ボールを見る時間も長くなったことでバットの芯に当たる確率が高くなった。今は引きつけて少々詰まっても、セカンドの後ろに落ちてくれればいいや、という気持ちでバットを振っています」

 

 元々、バッティングには目を見張るものがあった。プロ入り4年目の2004年には94試合の出場ながら17本塁打を放った。

 

 しかし、たび重なる故障に悩まされ、レギュラーに定着することはできなかった。8年目の今季、やっと素質が開花した。

 

 高校時代から定評の強打者だった。高校(大分工)通算43本塁打という堂々たる実績をひっさげ、01年、ドラフト1位で横浜に入団した。

 

 内川の野球の師は父親である。父親の一寛氏は法大-本田技研和光でプレーしたアマ球界の名手だった。

 

「物心ついた時から父親と一緒に野球をやるというのは当たり前という環境の中で育ちました。父は高校野球の監督をやっていたので土曜も日曜も家にはいなかった。だから遊びといえば、父が監督をやっている高校の試合を観に行くことでした」

 

 大分工に進学したのも、父親が監督をやっていたからだ。できれば将来は父親と同じ道を歩みたいと考えていた。

 

 試練は高校1年の時に訪れた。左足のかかとに痛みが生じ、病院に行くと「骨膿腫」と診断された。

 

「レントゲンを撮ったら、500円玉くらいの大きな穴が開いていたんです。腫瘍でした。除去手術を受け、穴が開いていた部分に冷凍していた他人の骨を入れた。1週間から10日あれば退院できると言われました。

 

 ところが1か月経っても痛みが引かない。中からは膿が出続けました。入れた骨と自分の骨が合わなかったんです。

 

 結局再手術を受け、自分の腰の骨を削って移植した。出席日数が足りなくて冬休みと春休みに補講を受けて進級するという状態でした」

 

 高校卒業後は大学に進学しようと決めていた。父の出身校である法大のセレクションを受け「入学内定」の話も得ていた。

 

 そこへ降って湧いたような横浜からの1位指名。父親に相談すると「オマエの人生なんだからオマエが決めろ」と言う。悩んだ末にプロ入りを決めた。

 

「最初は大学に進もうと思っていたのですが、それは逃げ道を作ることじゃないかと。“人生、一度は勝負を賭けなくちゃいけない”と思ったんです。そして“ここが勝負の時だろう”と。甲子園に出られなかった悔しさを晴らしたいという思いもありました」

 

 入団当時の体格は身長182センチ、68キロ。「ボキッとやったら腕が折れちゃうんじゃないか」と言われた。モヤシのような体だった。

 

 2年下に現在、中軸として活躍する吉村祐基がいた。体つきも飛距離もまるで違っていた。

 

「年下なのにアイツ凄いなぁと思いながら見ていましたよ」

 

 ショートでスタートし、セカンドにコンバートされた。同じ内野手でもショートとセカンドでは動きが逆だ。スローイングに悩み、ゴルフで言うところのイップスになった。

 

「それまではスローイングなんてビュッと腕を振ればそこにいくだろうという感覚でやっていた。ところがイップスになり、まわりからああしろ、こうしろと言われて余計にわからなくなってしまった。肩には自信があったんですが……」

 

 外野手を経て今年からファーストに定着した。試合に出られるならどこでもいいと思った。文字どおり“背水の陣”の覚悟で挑んだシーズンだった。

 

 打撃開眼――そう手応えを感じたシーンがある。

 

 4月9日、横浜スタジアムでの巨人戦。このゲーム、今季初めて内川はスタメンに起用された。

 

 巨人のピッチャーはサウスポーの内海哲也。同い年のライバルだ。

 

「内海はチェンジアップを低めに集めて勝負するピッチャー。得意のチェンジアップが高めに浮いたんです。それを泳がずにしっかりと振って左中間に持っていくことができた。打球はライナーとなってフェンスの一番上に当たった。

 

 このときにコツを掴んだような気がしました。右足にしっかりと体重を乗せ、それをボールにガンとぶつけることができた。この当たりは大きな自信になりました」

 

 8月31日現在、内川は3割7分4厘と依然として好打率を維持している。

 

 首位打者というタイトルはそう簡単に獲れるものではない。2位や3位の選手の打率は気にならないものなのか。

 

「まったく気にならないと言えばウソですけど、今は自分のやるべきことをしっかりやろうという意識の方が強い。自分が打てば下から追い上げられても関係ありませんから。

 

 それよりも僕はまだシーズンが終わって規定打席に到達していたことが一度もない。今年は一年間しっかりやりましたという証が欲しい。これが本音ですね」

 

 大魚を目の前にしながら、驕りも高ぶりもない。“ハマ(当時)のヒットマシーン”はなかなかのしっかり者である。


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