2012年の高校野球は、大阪桐蔭で始まり、大阪桐蔭で終わったと言っても過言ではない。春のセンバツで優勝を果たした同校は、夏も全国の頂点に立ち、春夏連覇という快挙を成し遂げた。澤田圭佑自身は甲子園で2度先発し、チームの勝利に貢献。特に夏は投げては完投、打っては甲子園初本塁打と投打での活躍を見せた。子どもの頃から夢だった甲子園での全国優勝を2度も経験した澤田。しかし、その裏では知られざる「背番号10」の苦労があった。
 汚名返上の甲子園初アーチ

「ストライク! バッターアウト!」
 瞬く間に甲子園にゲームセットのサイレンが鳴り響く。マウンド上のエースの元には、チームメイトたちが駆け寄り、喜びを爆発させた。8月23日、大阪桐蔭が光星学院高校(青森・現八戸学院光星)を3−0で下し、春夏連覇を達成した瞬間だった。

 その輪の中に、澤田もいた。しかし、彼の心の内は喜びとは少し違っていた。
「正直、ほっとしたという部分の方が大きかったですね。センバツで優勝してから、周囲からずっと『連覇、連覇』と言われてきたので、夏に優勝した時はようやくプレッシャーから解放された、という気持ちの方が強かったんです」

 澤田が最もプレッシャーを感じたのは、先発を任された3回戦の濟々黌高校(熊本)戦だった。それでも試合前のブルペンで澤田は絶好調だったという。
「自分では軽く投げていたつもりなのに、ボールが走っていたんです。それを見た西谷(浩一)先生が『おいおい、今から飛ばし過ぎるなよ。もう大丈夫だから、それでやめとけ』と止めに入ってきた。それほど、調子が良かったですね」

 1回表、澤田はランナーを出したものの、結果的には3人で抑え、無難な立ち上がりを見せた。するとその裏に味方打線が先取点を挙げ、澤田を援護した。ところが2回表、自らの暴投で同点を許してしまう。1−1のまま、試合は中盤へと入った。

 均衡を破ったのは、澤田自身のひと振りだった。4回裏、1死無走者から澤田が2球目のカーブを打つと、フラフラッと上がった打球は意外にも伸び、レフトスタンドへと吸い込まれていった。もともと中学までは「エースで4番」が定位置だった澤田。バッティングにも力があることを示した。

 ダイヤモンドを一周し、ベンチに帰ると、真っ先に出迎えてくれたのは西谷監督だった。
「西谷先生からは『オマエ、せっかく点を取ってもらったのに同点にされたけど、今の(ホームラン)で許してやるわ』って言われました(笑)」

 すると、澤田の一発に触発されたかのように、続く女房役のキャッチャー森友哉(現埼玉西武)にもホームランが飛び出した。大会史上5度目となるバッテリーのアベックホームラン。試合の流れは、大阪桐蔭へと傾き始めた。

 アウェーと化した甲子園

 澤田は5回表に2点目を失ったものの、6回裏に味方打線が2点を追加してくれた。そして、6−2と大阪桐蔭リードで最終回を迎えた。だが、最後に大きなヤマが待っていた。1死後、2本のヒットと死球で満塁というピンチを迎えたのだ。熱気を帯びた濟々黌の応援に呼応するかのように、甲子園全体に歓声の渦に巻き込まれた。

 普段、地元関西勢である大阪桐蔭にとって、甲子園はホームだった。ところが、その日は違っていた。創立130年を迎え、野球部も明治時代から続く県内随一の伝統校である濟々黌は大応援団を送り込んでいた。さらには2年生バッテリーということもあり、いつの間にか甲子園は濟々黌のホームと化していたのだ。

「自分たちがダブルプレーを取った時なんか、ベンチに帰ってきたら観客席から怒られたんです。一瞬、何か悪いことしたのかと思いましたよ(笑)。最終回はもう観客全員が濟々黌の味方なんじゃないかっていうくらい、すごい圧力を感じました。でも、その後の試合のことを考えたら、藤浪がリリーフとなると体力的にきついだろうと。だから何とか完投しなければいけないという気持ちでしたね」

 4万7000人が見つめる中、澤田はプレッシャーをはねのけた。わずか3球で2者を打ち取り、ピンチをしのぎ切ってみせたのだ。最後の打者の打球が左翼手のグラブにおさまった瞬間、澤田はゆっくりとホームの方へと向かった。その表情には安堵の色が見えた。

 その後、大阪桐蔭は順当に勝ち進み、決勝ではセンバツと同じ相手、光星学院と対戦し、3−0で完封勝ち。史上7校目となる春夏連覇を達成した。

 ブレない野球への姿勢

「執念」――澤田の座右の銘だ。その二文字の裏には、澤田の強い思いが込められている。
 甲子園で連覇を達成した大阪桐蔭は1カ月後、岐阜で行なわれた国民体育大会に出場した。2回戦で光星学院を破り、準決勝に進出した大阪桐蔭はその年の夏、甲子園1回戦で大会史上最多の22奪三振をマークした2年生エース松井裕樹(現東北楽天)擁する桐光学園(神奈川)と対戦した。

 先発のマウンドに上がったのは、2回戦に続いて澤田だった。甲子園で連投した藤浪晋太郎の身体を考えれば、指揮官にとっては当然の選択だった。それは澤田自身も理解していた。ところが試合前、澤田がベンチ前でキャッチボールをしていると、スタンドから「藤浪を出せ!」という声が飛んできた。観客は、藤浪と松井の投げ合いを期待していたのだ。

「(藤浪に)代えてください」。澤田がそう告げると、西谷監督からは「とにかく、今日は投げてくれ」と言われた。なんとか気持ちを切り替えてマウンドに向かった澤田だったが、試合中、スタンドからは「早く藤浪に代われ!」という声はずっとあったという。
「国体だけではありません。それまでも地方大会では、結構あったんです」

 結局、大阪桐蔭は3番手に藤浪を投入し、桐光学園をシャットアウト。打線も13得点を叩き出し、大阪桐蔭が圧勝した。果たして澤田はどう気持ちを切り替えたのか。
「たとえ自分を応援してくれる人がいなくても、どんなことを言われても、やっぱりチャンスをもらった以上は精一杯やらないといけないなと思ったんです。試合に出ることができずに、僕よりも辛い思いをしている選手がたくさんいるわけですから」
 チャンスを与えられたからには、何事にも動じず、やり遂げる――それが澤田の信念となっている。

 現在、立教大学2年の澤田はエースとして先発1番手を担っている。春季リーグは8試合を投げて3勝3敗。防御率はリーグ3位の1.89。チームを優勝に導くことはできなかったが、エースとしての役割はしっかりと果たした。

 当然、プロを目指しているのだろう、と今後の目標を訊くと、意外にも「プロは考えていません」という答えが返ってきた。
「もちろん、プロになれたらいいとは思いますが、今は大学で野球をやっているわけですから、リーグ優勝、大学日本一しか考えていません。先のことは、またその時に考えます」
 野球への姿勢は、高校時代とはまったく変わってはいない。たとえ2番手であろうと、エースであろうと、与えられたチャンスを無駄にはしない。澤田にはそれだけなのだ。ブレない姿勢が心地よく感じた。

(おわり)

澤田圭佑(さわだ・けいすけ)
1994年4月27日、愛媛県生まれ。就学前から野球を始め、リトルリーグ、シニアリーグでは1つ上の兄とバッテリーを組んで全国大会に出場した。大阪桐蔭高校時代は1年秋からベンチ入りし、2年秋からは主にリリーフとして活躍。3年時には藤浪晋太郎(阪神)らとともに甲子園春夏連覇を達成した。自身も春は準々決勝の浦和学院戦で甲子園初先発初勝利を挙げ、夏は3回戦の濟々黌(熊本)戦で2失点完投勝利を収めた。昨年、立教大学に進学。春からリーグ戦に登板し、チーム最多の19試合で6勝4敗、防御率1.73の好成績を挙げた。今年はエースとして、99年秋以来のリーグ優勝を目指す。右投右打、178センチ、88キロ。

(文・写真/斎藤寿子)



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