なぜ沢村は急速に衰えたのか、原因は戦争である。昭和13年春、沢村は歩兵として中国大陸に赴く。いわゆる武漢三鎮攻略戦に加わり、78人中22人しか生き残らなかった大別山の戦闘で左手と足を負傷する。左手は機関銃による貫通銃創だった。

 

<この原稿は2011年7月号『文藝春秋』に掲載されたものです>

 

 復員後、沢村は『オール讀物』昭和15年9月号誌上にて当時の日本を代表するプロボクサーだった笹崎僙と対談を行っている。タイトルは<帰還二勇士 戦争とスポーツを語る>。その中で、心境を述べている。

 

<やはり向うから帰って来ると気があせるのです。自分の体というものを忘れてしまうのですよ。ある程度判っていても、僕なんかもグランドに行くとすぐにやりたくなってしまうのです。それでやってしまうでしょう。それで馬鹿なことをしたなと思う。やはり半年くらい静養してからやった方が良いようですね>

 

軍隊生活で失われた速球

 

<僕は以前のことは全部忘れることがいいと思って、新しく出発しようと思ってやっているのです。以前のことは以前で、アメリカに行ったとか、いろいろな華やかな生活があったとかいう気持でいたら失敗するのではないかと思うのです。それで人一倍練習はしたいのですが、それにはやはり自分の体を以前の体に戻してからやろうと思っております。向うでマラリヤをやっておりますし、わずかの間であったが、人間としてこれ以上耐えられんというところまで行った体ですから、筋肉労働をするまでには、自分の体を整えてからやった方がいいと思っております。野球というものも、片手でボールを投げてしまえばいいと思えばそれまでですが、やはり足の先から順々にやって行かなければなりません。ランニングをして腰を強くするとか、いろいろ礎練習をしてから初めてボールを持って投げるので、無理をして一時線香花火のようによくても、長続きしません。ゆっくり徐々にやって行くつもりです。まあ初年兵からやり直すつもりです。>

 

 そして、こんな本音も口にしている。

 

<ファンの人は、調子の良い時のことばかり記憶していて、悪い時のことはみんな忘れているので、とてもつらいです>

 

 美緒さんは、母親から「沢村は努力の人だった」と聞かされている。

 

「母が言うには“あの人、指を内側に曲げたら、ペターンと中指が手首につくのよ”って。私が“それ、本当?”と聞くと、“常にそういう練習をしていたのよ”って言っていました」

 

 復員から3カ月後の昭和15年7月、西宮球場で沢村は名古屋相手に3度目のノーヒット・ノーランを達成する。これがピッチャー沢村の最後の輝きだった。

 

 2度目の応召は昭和16年10月。フィリピンのバターン攻略に参加し、それからミンダナオ島に向かった。レイテ沖では爆撃を受け、命からがら島に泳ぎついた。南方での軍隊生活で沢村の体はすっかり衰え、帰国してからも往時の快速球が甦ることはなかった。

 

 昭和18年、戦局は悪化の一途をたどり、シーズン終了をもって沢村は東芝へ勤労奉仕に駆り出され、倉庫に残るガラスくずの掃除などに精を出した。

 

 解散寸前の巨人軍では、例年のように暮れに行なわれる契約書の送付も滞りがちで、年が明けても堺に住む沢村の元に、球団からの書類は送られてこなかった。

 

 業を煮やした沢村は翌19年2月17日、銀座にあった球団事務所に専務取締役の市岡忠男を訪ねた。市岡は鈴木惣太郎、三宅大輔、浅沼誉夫とともに読売新聞社社長であった正力松太郎に職業野球チーム結成を進言した“4人衆”のひとりで、巨人の前身である大日本東京野球倶楽部の総監督まで務めた人物である。その市岡が無造作に差し出した選手名簿に沢村の名前はなかった。この時の沢村の無念は察して余りある。

 

「父は人の悪口は一切口にしない人だったと聞いています。しかし、2、3人だけ“許せない”と思った人がいたようです。そのひとりが市岡さん。

 

 何でも(解雇の時の)対応がひどかったとか。契約更改の通知が来なかったので球団事務所に行き、やはり納得がいかないので自宅を訪ねると“上がれ”とも言われず、門前払いされたそうです。さすがに、この時は怒り心頭で“オレは巨人を嫌いになった”と言ったそうです。母には“野球をやめても、ちゃんと食わしてやる”と随分、格好のいいことを言ったようです」

 

 もちろん市岡にも言い分はあっただろう。後に巨人の代表となる宇野庄治は「沢村はクビだったかもしれない。そうだったとしても、彼の技量の低下のためだ」と述懐している。

 

 契約は契約として、あくまでもドライに事を進めようとする球団と、チームのためを思って、馬車馬のように働いてきたのに情のかけらもないのかと詰め寄る選手。この対立の構図は、今の球界でも別段、珍しいことではない。

 

未だに悔いが残る千人針

 

 昭和19年10月12日、沢村に3度目の赤紙がきた。11月13日、京都・伏見連隊に入営。12月2日、門司港からフィリピンに向かう途中、東シナ海で敵の魚雷を受け、最期をとげた。享年27だった。

 

 美緒さんは母親の無念を、こう代弁する。

 

「父はまさか3回目(の出征)があるとは思っていなかったみたいです。2回とも生きて帰ってきたものだから、3回目も死ぬとは思っていなかったようですね。

 

 ただ母には悔いが残っているようです。あの頃、千人針(戦場での幸運を祈り、多くの女性が縫って作ったお守り)ってありましたでしょう。1回目も2回目もそれをやったんですが、3回目だけやらなかったそうです。私は“そのせいで死んだんじゃないわよ”と慰めたのですが、母は未だにそれを引きずっている。ずっと、そのことが喉に刺さった小骨のようになっているみたいなんです……」

 

 沢村の墓は故郷である三重県伊勢市の閑静な住宅街の中にある。ボールをあしらった独特の形状の墓は、遠くからでもひと目で沢村のものとわかる。御影石でつくられたボールには縫い目まで刻まれており、中央にはジャイアンツのGのマーク。沢村家は神道のため戒名はない。

 

 冒頭でも紹介した、そのシーズンで最高の先発ピッチャーに贈られる「沢村賞」は1947年に創設され、当初はセ・リーグの投手だけを対象としていたものを、1989年からはパ・リーグの投手にも権利を与えた。

 

 なお同賞は公式の表彰に準じる特別賞でありながら、その価値が他を圧するのは、今季の開幕前、東北楽天の田中将大が「沢村賞を目指す」と語ったことでも明らかだろう。

 

 ところが身内の心中は複雑なようだ。美緒さんは感情を抑えるように、淡々と語った。

「母は(この賞の存在を)素直に喜ぶ気にはなれないようです。やはり最後の仕打ちが今でも鮮烈に記憶に残っているんでしょうねぇ……」

 

 泉下の沢村は何を思うのか。間もなくこの国にプロ野球リーグが誕生して76年目の夏を迎える。

 

(おわり)


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