プロテニスプレーヤー伊達公子の2度目の引退記者会見の舞台は思い出の詰まった東京・有明コロシアムだった。

 

 

 1996年4月28日、日本対ドイツのフェド杯ワールドグループ1の1回戦。世界ランキング7位(当時)の伊達は1位(当時)のシュテフィ・グラフと日本テニス史に残る名勝負を演じ、金星をあげた。

 

「当時ナンバーワンのグラフに勝った試合は忘れられない。当時、立ち見のお客さん、入れなかったお客さんも、最後にはこの会場に足を運んで頂いた。その時、私はケガをしていて歩くことすらできない状態の中で戦って勝てた。やはり一番思い出深い試合です」

 

 こう語り、グラフへの思いを口にした。

「憧れとは呼べないくらいの存在感と強さを持ち合わせた真のアスリートだった。ナンバーワンであるべきプレーヤーで、目標とか憧れとか、そういうことを呼びたくても呼べないくらい格別な存在でしたね」

 

 伊達が振り返るように、彼女は前日の試合で左足の裏側を痛めていた。グルグルに巻かれたテープは、見るからに痛々しかった。

 

 伊達にはひとつの作戦があった。グラフが得意とするフォアハンドを封じようというものである。

 

 伊達はいったんグラフのオープン・スペースにストロークを配し、バックハンドでしか対応できないスペースをこしらえた。そこに精度の高いバックハンドでのクロスやフォアハンドでのダウン・ザ・ラインを狙い打ったのだ。

 

 ファイナルセット、11-10の第22ゲーム。伊達は最初のポイントを下がりながらのダウン・ザ・ラインで奪った。これは2本続けて同じコースに打ち込んだもの。この執拗な攻めにグラフはついていくことができなかった。

 

 伊達はサービスでもポイントを重ね、いよいよマッチポイント。グラフのフォアがネットからこぼれ落ちた瞬間、名勝負にピリオドが打たれた。

 

 試合時間、3時間25分。ファイナルセットは同カップ史上最多の22ゲームを記録する文字通りの死闘だった。

「勝つとか負けるとか、もうそれどころじゃなかった」

 試合後の伊達のコメントが全てを物語っていた。

 

 その年、伊達は長きにわたるツアー生活での疲労の蓄積などを理由に26歳で引退した。しかし、テニスへの思いは尽きていなかった。37歳で再びコートへ復帰し、2011年のウィンブルドンでは、全英で5度の優勝を果たしているビーナス・ウィリアムズ相手に好勝負を演じた。

 

 伊達は「勝負には負けてしまったが、展開の速いテニス、ネットプレーをミックスすることで、今のパワーテニス、スピードテニスに対応することができた」と語った。

 

 この28日で47歳になる。「こんなに幸せなアスリートは、そうはいないのではないかと思います。2度も世界のトップレベルで戦うチャンスを得ることができましたから」。コートの不死鳥として、彼女のプレーは永遠に語り継がれるだろう。

 

<この原稿は『サンデー毎日』2017年10月1日号に掲載されたものです>

 


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