かつて天才の異名をほしいままにしたカープの前田智徳が2000本安打を前にして、もがき苦しんでいる。交流戦20試合の打率は70打数11安打、わずか1割5分7厘。イメージと異なるパ・リーグのピッチャーの球筋に戸惑っているようにも映る。四球数はセ・リーグ打撃30傑中、最少。あれほど選球眼のよかったバッターに、いったい何が起きているのか。

 プロ入り3年目で打率3割8厘をマークした。打撃ベスト10の5位。翌年は3割1分7厘(4位)、翌々年は3割2分1厘(2位)。イチローが憧れ、落合博満が「天才」と評した。ヒットを打っても、気に入らない打球だと仏頂面。「これまでで最も理想と思う打球は?」との私の質問に「ファウルならありますけど」と平然と答えた。孤高のサムライ――それが前田に抱いた最初のイメージだ。

 順風満帆だった野球人生が暗転したのは、1995年5月23日、神宮球場でのヤクルト戦。打者走者として一塁へ駆け込んだ際、右アキレス腱を断裂した。「前田智徳というバッターはもう死にました」。見舞った私に前田は表情を消して語り、続けた。「自分はいったいどこまで進歩するのだろう。ケガをする前は限界の見えない自分自身の成長が楽しみでした。そんな自分に魅力を感じてもいました。でも、すべてはもう過去形なんです」

 翌96年、105試合に出場して打率3割1分3厘を残した。しかし、痛めた右足をかばって肉離れを起こすなど、満身創痍の状態でのプレーを余儀なくされ続けた。アキレス腱の状態について訊ねた私に、前田はこう答えた。「いっそうのこと、もう片方(のアキレス腱)も切れんかな、と思うとるんです」。一瞬、私は言葉を失った。「両方切れるとバランスよくなるかもしれないじゃないですか。それで元に戻るんやったら…」。目には狂気の光が宿っていた。もし、あのアクシデントがなかったら、彼は球史を塗り替える大仕事をやっていたかもしれない。それは巨人の吉村禎章についても言えることだが…。

 2000本安打まで、あと39本。前田智徳にとって、この数字はイチローや松井秀喜が口にしたような「通過点」ではない。ボロボロになってたどりついた敗残兵の帰還の譜である。

<この原稿は07年6月20日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

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