球団創設初年度に、打率ほどの勝率(2割8分1厘)しか残せなかったチームが、3年目で勝率5割を目指せるまでになったのだから、何やかやと言われても、楽天の指揮を執る野村克也は名将である。

 野村が最弱チームの監督を引き受けたのは、もちろん野球が3度のメシよりも好きだからだが、それだけではあるまい。3位以内のチームに出場権が与えられるプレーオフ制度はこの上なく魅力的に映ったはずだ。

 忘れられないのが1973年のプレーオフだ。この頃のパ・リーグは阪急が圧倒的に強く「パ・リーグの灯を消すな」がプレーオフ制度導入の大義名分だった。そして、この制度を誰よりも研究していたのが野村だった。「当時は前期、後期の2シーズン制。どのチームもどちらかをとろうと無理をして、トーナメントのような戦い方をした。こんなことしたら逆にピッチャーが潰れますよ」。野村の狙いは的中し、前期は頑なにローテーションを守り通した南海が制した。

 後期は阪急が他を圧倒した。南海は阪急に対し0勝12敗1分。これでどうやってプレーオフに勝てというのか。野村は一計を案じた。「全部勝ちに行くと、それこそ全部負けてしまう。1、3、5戦の奇数の試合に全力を投入しようと。あとの2、4戦は負けても構わない……」

 南海の当時のエースは江本孟紀。南海は江本の好投で初戦、3戦をとった。計算通りだ。5戦目、9回裏、2死無走者、2−1と南海が1点リードの場面。阪急は無類の勝負強さを誇る高井保弘を代打に送った。ここでプレーイングマネジャーの野村はマスクを外してマウンドに歩み寄る。「高井は遅いボールに強い。江本にひとりだけ助けてもらえ」。クローザーの佐藤道郎が首を振ると、ボールを引ったくった。「これは監督命令じゃ!」。野村の期待に応えた江本は、高井を三振にしとめ、南海はプレーオフを制した。

 34年前の出来事を懐かしむように野村は言った。「さすがにあの時だけは西本(幸雄・阪急監督)さんの顔、よう見なかったな。申し訳なくて。西本さん、怒ってたよ。野村の野郎、死んだフリしやがってって。あんな痛快なシリーズ、僕の野球人生では他にないね。ガッハッハッ」。4日現在、楽天は3位に4ゲーム差の4位。位置取りとしては悪くない。

<この原稿は07年6月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

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