さて、リングスに目を移してみよう。<メガバトル>の参加外国人はクリス・ドールマン(オランダ)、ディック・フライ(同前)、ヘルマン・レンティング(同前)、ハンス・ナイマン(同前)、ウィリー・ピータース(同前)、ディミータ・ペトコフ(ブルガリア)、ソテル・ゴチェフ(同前)、アンドレィ・コビィロフ(ロシア)、ヴォルク・ハン(同前)、ウラジミール・クラブチェック(同前)、グロム・ザザ(グルジア)、ゲオルギー・カンダラッキー(同前)の12名。オランダ、ブルガリア、ロシア、グルジアの4カ国からの参加ながら、国際色豊かなトーナメントに見えたのは、これら4カ国には格闘技王国のイメージがあると同時に、プロレスからは疎遠のニュアンスが強く、ために他団体のプロレス会場では味わうことのできないテイストを存分に提示することができたからに違いない。
 加えて、先述したように、個々のレスラーが大変個性的であり、かつエスニックな魅力を漂わせていたことも、観る側にとってはとても新鮮であった。ある団体の幹部レスラーはリングスの参加外国人選手全員の名前に目を通すなり「世界的に見れば三流どころか無名ばかり。きちんとプロレスのできる選手なんてひとりもいないんじゃないの。これじゃファンに対して失礼だよ」と呆れ果てていたが、最早、ネームバリューで勝負する時代は終わったといっていい。とりわけ最近の若いファンには「手垢のついた熟練工のような外人より、不器用でも、ギラリと凄味のある外人を見たい」という意識が強い。プロレスファンはいつの時代でも“未知の強豪”という宣伝文句に魅力を覚えるものなのだ。その習性は力道山時代から全くといっていいほどかわっていない。

 再び話を力道山に戻そう。力道山時代、5回行なわれた<ワールドリーグ戦>の中で最も盛り上がりを見せたのが、1961年の第3回大会であった。主役は“密林男”ことグレート・アントニオ。東京・神宮外苑絵画館前でクサリでつないだ8トンバス4台を引っ張るデモンストレーションを敢行し、センセーションを巻き起こした。

 だが、この人気が彼には災いする。「この大会はオレの人気で持っているようなものだ」と錯覚し、天狗になってしまったアントニオは高松大会の控室でドイツ代表のカール・クラウザー(カール・ゴッチ)とアメリカ代表のミスターX(ビル・ミラー)に、要するに態度がデカいという理由で袋叩きにあってしまう。実力派のミラーとクラウザーを前にしては、さしもの怪力男もヘビににらまれたカエルも同然だったろう。

 ミラーもクラウザーも、アメリカでは名の売れたレスラーではなかった。とりわけ堅物のクラウザーは頑としてクラシックな自分のレスリング・スタイルを曲げようとせず、プロモーターから疎んじられていた。
 だが、彼のテクニックには一級品の輝きがあった。吉村道明戦で初めて公開したジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め)は、日本のプロレス界に大きな衝撃を与えた。

 クラウザーは、このスペシャル・ホールドを披露したことにより、以降、日本では「プロレスの神様」と呼ばれ、奉られることになる。力道山とは地方の大会で対戦し、ダブル・ノックアウトによる無勝負。実力の違いを肌で感じたのか、それ以来、力道山は二度とクラウザーと手を合わせようとはしなかった。

 時代は巡り、そのクラウザーに匹敵する衝撃的なデビューを飾ったのはヴォルク・ハンである。一昨年12月、前田と対戦したコマンド・サンボの使い手は、先述したように綾取りの糸をひねり上げるように多種多様な関節技を使い分け、藤原嘉明のみがサブミッションの使い手でないことを満天下に知らしめた。

 そして再対決となった昨年4月の広島大会では、傷めている前田の左ヒザを徹底して攻め、ついにヒザ固めで殊勲のギブアップ勝ちを収める。敗れた前田は「あれを耐えていたら、二度と試合をすることのできない状態になっていた」と言って、あっさり兜を脱いだ。

 クラウザーもハンも、来日するまでは実力を窺い知ることのできない“未知の強豪”だった。ともに素晴らしいテクニックの持ち主でありながら、それを披露する機会に恵まれなかった(もっともコマンド・サンボは戦技ゆえ観客に披露する性質のものではないのだが……)。それが、<ワールドリーグ戦>という舞台を力道山が用意したことにより、あるいは<メガバトルトーナメント>という格闘磁場を前田が提供したことにより、ベールに包まれていた秘技が私たちの眼前にさらされることとなった。ソムリエ気分で、プロフェッショナルの色に染められた究極の技に舌鼓を打てるなんて、一生のうちにそう何度もあるものではない。

 プロレスの見巧者を自認する、筆者の友人は<メガバトルトーナメント>の決勝後、こんなことを言っていた。
「誰が優勝するか、誰が勝つかなんて全然興味ないよ。ハンが今日はどんな新しい関節技を見せてくれるか、それだけを楽しみにしているんだから。そういう発見がなくなったらもうリングスには足を運ばないよ」

 世界は広い。もし、前田がUWFを解散し、たったひとりでリングスを旗揚げしていなかったら、私たちはヴォルク・ハンという希代のテクニシャンと出会えていなかったかもしれない。早い話が“ヒョウタンから駒”とうわけなのだが、熟練工同士の密度の濃いファイトにばかり支持を送る姿勢を取り続けていたら、蔵の隅に眠っていた極上のワインを手に取り、口の中に溶かすことはできなかったはずだ。

 動機は必ずしも純粋でなくていい。狭い世界に閉じこもって八方塞がりになるよりは、外の世界に打って出てオール・オア・ナッシングの勝負を挑んだ方が、スペードのエースを引き当てた時の配当も大きい。そういう勝負の果てに力道山はクラウザーを、そして前田はハンを引き当てた。その幸運は決して偶然ではなく、チャレンジ精神の対価であった。

(つづく)

<この原稿は1993年2月20日号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>
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