この1月31日は、“東洋の巨人”というニックネームで一世を風靡したジャイアント馬場(本名・馬場正平)の25回目の命日だった。

 

 

 力道山の弟子である馬場、アントニオ猪木といえば、我々の世代からすれば、プロレス界の2トップである。

 

 書店をのぞくと、未だに馬場、猪木に関する本が平積みされている。2人の人気は死してなおも高いということだ。

 

 もし馬場が生きていたら、聞いてみたいことがあった。

 

 それは1967年4月7日、第9回ワールドリーグ前夜祭の東京・後楽園ホールで起きた猪木による“馬場救出事件”である。

 

 胸に名前入りのタスキをかけた選手が入場する前、スーツ姿の猪木がリングに上がり、日本プロレス復帰の挨拶を行った。

 

 猪木は66年3月に日プロを退団し、豊登とともに東京プロレスを旗揚げする。しかし、興行は苦戦続きで、実質的には、わずか2シリーズしかもたずに崩壊した。

 

 待遇に不満があったとはいえ、後ろ足で砂をかけるようにして日プロを出ていった猪木の復帰を、馬場はどんな思いで見つめていたのか。

 

 入場式でガウン姿の馬場はワルドー・フォン・エリックに襲われ、無様にリング上を転げ回る。

 

 そこに現れたのが猪木である。スーツ姿のまま控室から颯爽と舞い戻り、エリックたち外国人レスラーを蹴散らしてしまったのだ。それを日本テレビが全国中継した。

 

 ワールドリーグ戦は、力道山の発案によって59年にスタートし、他界する63年まで、力道山が5連覇を達成している。64、65年は豊登。66年は、馬場が初めて優勝し、エースの座を射止めた。

 

「さあ、これからはオレの時代だ!」

 

 馬場は、そう思ったに違いない。そこに猪木が舞い戻り、襲われている自分を救出する――。これでは、どっちが格上で、どっちが格下かわからない。まるでピエロである。

 

 というのも当時、エースの仕事は外国人に痛めつけられている二番手を救出することと相場は決まっていたからだ。力道山が木村政彦を助けはしても、その逆はなかった。

 

 誰が、こういう“仕掛け”を思いついたのか。おそらく日プロ幹部の中には、馬場の台頭を好ましく思っていない者がいたのだろう。また猪木との二枚看板の方が商売になる、とソロバンをはじいていた者もいたに違いない。

 

 なお、馬場はこのワールドリーグ戦で連覇を果たし面目を保った。

 

<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2024年2月23日号に掲載された原稿です>

 


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