開幕して20年を迎えたJリーグ最大の立役者が初代チェアマン・川淵三郎であることは言を俟たない。
 その川淵は、1年目のシーズンが終わった直後に私が行ったインタビューで、将来のリーグ像について、こう語っている。
「日本における選手の供給源の事情を考えると、トップが16で、2部が16、合計32クラブのプロ制が望ましいと思っている」

 周知のように93年5月に10クラブでスタートしたJリーグも昨季でJ1、J2合わせて40クラブにまで膨らみ、今季はFC町田ゼルビアに替わり、?・ファーレン長崎が加わった。来季にはJ3も10〜12クラブで始まる予定だ。

「正直言って、これだけ発展するとは夢にも思わなかった」
 さる17日、都内のホテルで催された20周年記念パーティーを前に川淵はこう述べた。つまり、Jリーグは“創業者”の予想をはるかに上回るスピードで発展を遂げているというわけだ。

 しかし、ここまで順風満帆だったかといえば、決してそうではない。トップが川淵でなければ乗り越えられないような危機が何度もあった。
 最大のピンチは98年にリーグを揺るがした“フリューゲルス・ショック”。横浜フリューゲルスの出資会社である佐藤工業の撤退を受け、吸収に近い形でクラブがマリノスと合併したのである。

「地域密着」を理念に掲げるJリーグにとって、クラブ同士の合併は禁じ手である。だが、「企業の論理」の前では「地域の論理」なんてひとたまりもなかった。これは当時、「独裁者」と言われた川淵にとっても、「全く寝耳に水の話」で、表情は憔悴しきっていた。

 降って沸いたような合併劇には、どんな事情があったのか。古い取材ノートから川淵とのやりとりを引用する。
「98年に入ってから日産の100%出資会社であるマリノスがパートナーを探しているらしいという話は僕の耳にも入っていた。だからマリノスについては心配していたんだけど、まさかフリューゲルスとは……。あそこは佐藤工業が撤退しても、バンダイが入るという話だったんだけど……」

 ――この合併を仕掛けたのは?
「全日空だろうね。佐藤工業が撤退することで、自社の負担分がどんどん大きくなる。一方、日産にしても座間工場は閉鎖するわ、自社ビルは売却するわでサッカーどころじゃない。強力なパートナーが必要ということで両者の思惑が一致したんでしょう」

 川淵の剛腕をもってしても、親会社間で秘密裡に決定した合併を覆すことはできなかった。だが、これを教訓とした川淵は「身の丈に合った経営」を徹底するようクラブに指示し、以来、消滅したJクラブはひとつもない。

 今ではプロ野球の球団でも「地域密着」を謳っている。川淵が推進した理念が正しかったことは、その後の歴史が証明している。

<この原稿は『サンデー毎日』2013年6月9日号に掲載されたものです>

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