仙台六大学野球リーグに所属する東北福祉大が全日本大学野球選手権を制したのは、今から24年前の1991年のことである。関大との決勝戦、延長17回に決勝タイムリーを放ったのは広島や阪神で活躍した金本知憲だ。東北勢としては初の日本一だった。
 同大は、それまで3度決勝に進出し、いずれも敗れていた。87年は志村亮の慶大に、翌88年は酒井光次郎の近大に、そして90年は小池秀郎の亜大に。「ウチはなぜかサウスポーに勝てない」。監督の伊藤義博(故人)はうめくように、そうつぶやいたものだ。

 4度目の挑戦で、やっと大学野球の頂点に立った。「地方の大学でも、練習方法や野球に対する考え方次第では中央の大学に勝てるんです」。伊藤の確信にみちた声が忘れられない。

 その15年後の06年、秋田県にかほ市を本拠地とするTDKが都市対抗野球で、初めて黒獅子旗を東北の地に持ち帰った。TDKはそれまで都市対抗に8回出場していたが、全て初戦で敗退していた。

 そんなチームが日本一になったものだから、人口約3万人の小さなまちは沸きに沸いた。優勝パレードには約3500人が参加した。だが、パレードにつきもののオープンカーは、市内に1台しかなかった。そのため選手たちには紅白の幕で覆われた4トントラックが2台あてがわれた。これはTDKのグループ会社から借り受けたものだった。手づくりのパレード。雨の中、選手たちは2時間にわたって沿道の住民に手を振り続けた。

 大学、社会人とくれば次はプロだ。星野仙一率いる東北楽天が球団創設9年目にして初のリーグ優勝、日本一に輝いたのは大震災から2年後の13年のことだ。夢にまで見た本拠地での日本一の胴上げ。「大震災で苦労なさっている皆さんを見ると、日本一になってみんなを癒してあげたい。それしかないと信じてこの3年間、戦ってきました」。闘将の胸を打つスピーチだった。

 東北球界に、まだ足りないものがある。甲子園の優勝旗だ。今夏で100周年を迎える高校野球、東北勢は春夏合わせて10度決勝に進出しているが、頂点には1度も立っていない。「越すに越されぬ白河の関」というわけだ。

 かつて高校野球で常套句のように用いられた“西高東低”は、今や死語である。11年前、深紅の大旗は津軽海峡を越え、北海道に渡った。そろそろ東北にも……。機は充分に熟している。

<この原稿は15年7月29日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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