「レスラー時代はケガのデパートと呼ばれるほど満身創痍でしたよ」
 僕のこの言葉に八重樫東選手はどっと笑った。

 ケガのデパートと言ったのはウケ狙いでもなく本当の話だ。首のケガが原因で引退したが、眼下底骨折や腓骨骨折、半月板の切除手術、ヒザの靭帯損傷など挙げればキリがない。数々のケガに泣かされた話をすると、八重樫選手がまるで同志を見るような目に変わったのは気のせいではなかった。

 なんと彼もケガだらけのボクサー人生だった。
「悪いところは、腰やヒザなどボロボロですね」
 あのイーグル京和選手との世界戦でアゴの骨を砕かれたのは有名だが、それだけではなかったのだ。

「拳の傷からバイ菌が入り、腕を切断寸前までいったこともあります」
 こんな恐ろしい出来事まで、さらっと言ってのけた。かつて、ジムの大橋秀行会長から見かねて引退勧告を受けたと言われていたが、これは大袈裟ではなく実話だったのだ。

 八重樫選手は、アマチュアから鳴り物入りで入ってきたエリートだったものの、プロの世界では順風満帆とは行かなかった。今回の王座統一戦で戦った相手の井岡一翔選手は挫折知らずのサラブレッドであり、実に対照的である。

 そもそも、そんなボロボロの状態からよくぞ世界チャンピオンにまで上り詰めたものだ。引退勧告され、そのまま引退した僕からしてみれば、彼を同じ生身の人間とは思えない。

 彼と僕はどこが大きく違っていたのだろうか……。

 その秘密を探るべく練習を観察していると、ジムの片隅で苦悶の表情を浮かべながら黙々と体幹トレーニングをやっている彼がいた。メディアなどでは、1日2000回の腹筋をこなしたとあったが、どうやらそれだけではなかったようだ。

「(サッカーの)長友(佑都)選手なんかの本を参考にして、体幹を鍛えています」
 八重樫選手からは新しいトレーニングを常に貪欲に吸収しようとの気構えが感じられた。やはり、ケガを克服するには、ただ闇雲にトレーニングをやるだけでなく、創意工夫が必要なのである。引退する者とチャンピオンになる勇者は、そこがまず大きく違う。

 当時の僕に欠けていたのはここだろう。今、振り返ればケガを理由にトレーニング自体から目を背けていたのがいけなかった。

 大橋ジムに行くと、ひときわ目立つのはボックスジャンプ用の大きな台である。
「八重樫は、これを2段にして跳びますよ」
 松本好二トレーナーは軽く言うが、彼の身長から考えるとこれは大変なことだ。僕もトレーナーの勉強をするようになって、ジャンプ系のトレーニングが格闘技にも必要だとわかったが、ここまでしっかりやっていたとは驚きである。

 そんなトレーニング熱心な彼にとって、統一戦前にフィジカルトレーナーと出会えたことは追い風だったに違いない。
「火曜と木曜それに土曜は、土居トレーナーと筋トレなど色々なフィジカルのトレーニングをやっています」
 スクワットやベンチプレスなどフリーウエイトの筋トレやパワーマックスに加え、トラックランなど心肺機能をいじめ抜くトレーニングを徹底的にやらされたようである。

 さすがにここまでやると栄養補給も大変だ。
「プロテインやアミノ酸のBCAAとグルタミン、クレアチンなどサプリメントもバッチリ摂っています」
 サプリメントは、基本となる食事がしっかりしていないと効果がない。外食やコンビに弁当では、栄養のバランスを取るのは難しい。

 この点は彼の場合は問題なかった。「減量中でも家族の分の料理を僕が作ります」と語るほど、料理が得意だったのである。彼の場合、奥さんがいるのに自ら厨房に立つのだから頭が下がる。しかも減量中にも料理を作るなんて、並みの精神力ではない。

「得意料理? 特には……」
 僕が何度しつこく聞いても、八重樫選手は言葉を濁すばかりだった。最後は「冷蔵庫の中を見て適当にやりますね」と、まるで主婦のような答えが返ってきた。
しかし、この答えこそが、普段から料理をやっている証である。僕は、彼が料理を教わったという横浜の某ラーメン店に勤める先輩を訪ねてみた。

「料理教えてくれって言われて、いろいろと教えたけど、どれも上手よ」
 やはり料理の腕前は本物であるようだ。大切な食事を手抜きせず、最新のフィジカルトレーニングを続けた結果、彼の肉体はスゴイことになっていた。

「なに? このボディビルダーのような身体!」
 6月20日、統一戦のリングに立った八重樫選手の身体は、驚くほどの進化を遂げていた。かつて引退を勧められた人間のそれとは、とても思えなかった。

 昨年10月に世界王座を獲った時から比べてみても、その筋肉量の違いは歴然としていた。おそらくパンチ力は倍増し、井岡選手も面食らったのではないだろうか? 結果はご存知の通り、残念ながら八重樫選手の判定負けであったが、どっちが勝ってもおかしくない内容であった。

 リマッチが見たい! それが試合を見終わった後の率直な感想だ。それほどの僅差であり、魂を揺さぶられる熱い試合だった。統一王者となった井岡選手は階級を上げる意向を示したが、ここは八重樫選手も是非とも追いかけてもらいたいところである。

 彼らのライバルストーリーをこれで終わりにするのは、あまりにももったいない。八重樫東の真骨頂は苦境から這い上がっていく点にある。それだけに、これからがこれまでよりも面白くなってゆくだろう。あの進化をやめない肉体を見た以上、次を期待せずにはいられない。

(毎月10、25日に更新します)


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