政府会計の不正処理を問われて弾劾裁判にかけられ、最長で180日間の職務停止処分を受けたブラジルのジルマ・ルセフ大統領に対するIOCトーマス・バッハ会長の反応はつれないものだった。
「オリンピックの準備は実行の段階に入り、このような問題もほかの段階に比べれば影響は少ない」
大統領がいようがいまいが、どうでもいいと言わんばかりだ。ルセフ氏も随分と軽く見られたものである。
リオデジャネイロ五輪の開会式は8月5日。これにはミシェル・テメル大統領代行が出席するものと見られる。
だがモノは考えようだ。国の最高権力者の不在は、オリンピックの原点を見つめ直す意味で、むしろ、いい機会ではないか。
個人的にはオリンピックの政治利用にこそ、もっと厳しい視線が向けられるべきであると思う。
オリンピックを政治的プロパガンダに利用した為政者といえば、真っ先にアドルフ・ヒトラーが思い浮かぶ。
そもそもヒトラーはオリンピックが好きではなかった。むしろ「ユダヤ人とフリーメイソンの発明品」などと妙な理屈をつけて毛嫌いしていた。
ヒトラーが目指したものは、あくまでも「アーリア人種の優越性」の証明であり、オリンピックは眼中になかった。
それが、なぜ一転してオリンピックに興味を示すようになったのか。端的に言えば、ナチスドイツの国威発揚のために利用できると考えを改めたからである。
1936年ベルリン五輪の異形性を余すところなく描出しているのが浅野均一(元国際陸連評議員、JOC委員)の「オリンピックで見たナチス」である。
<ヒトラーがスタンドに来ると、ヒトラー旗があがる。観衆が全部、待ってましたとばかり、総立ちになって手を挙げてハイルを叫び、ヒトラーが拍手をしたといっては騒ぎ、立ちあがったといっては叫ぶ有様で、その間、競技なぞはどこえやら、選手に気の毒な場合もしばしばで、不愉快なことがずいぶんあった>(「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史)
まさにヒトラーのヒトラーによるヒトラーのための大会だったのだ。
近年では中国が北京五輪開催に際して、聖火リレーをチョモランマまで運び、「度を過ぎた国威発揚」と大きな批判を浴びた。
オリンピックを、どれだけ政治利用したかは、その国の“独裁度”を測る貴重なモノサシとなっている。
<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2016年7月1日号に掲載されたものです>
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