☆最終回特別編☆ 振り返るプロ20年<後編>
――パラグアイ1部のグアラニで1シーズンを過ごし、福田さんは2005年1月、次のステップとしてメキシコ1部の強豪パチューカに移籍しましたね。
福田: メキシコのマーケットは大きく、日本円で言うと2億、3億稼ぐ選手もいました。ここで成功して日本人プレーヤーのパイオニアになってやるぞという気持ちでした。僕が移籍したパチューカのトップチームは外国人枠が埋まっていて、普段は2部に所属するパチューカのセカンドチームでプレーしなければなりませんでした。ただコパ・リベルタドーレスは外国人枠がないため、トップチームでプレーできるという状況でした。
――パチューカの町は標高2500メートル近い高地にあるとか。
福田: 初めてパチューカで練習したときは、何もできませんでしたね。1、2回ダッシュしただけで目の前に星が回っているんですよ。呼吸しても、息が入ってこない。家族も一緒にこの町に来たのに、『これはやばい。どうしよう』と正直思いました。同時期に移籍してきたカメルーン人のフォワードはたった3日で見切られましたから、焦りましたね。1日も早くこの環境に慣れて何とか踏ん張ろうと必死でした。開幕1週間前の対外試合でゴールを決めることができて、『コイツはなかなかやるかもしれない』と信頼を寄せてもらえるようになっていったんです。
――福田さんはこのメキシコ2部でもゴールを量産していくことになります。
福田: シーズンの後期に入って半年で12得点を挙げて、確か得点ランキングも2位か3位だったと思います。リベルタドーレスではトップチームのアルフレッド・テナ監督がペルーのスポルティング・クリスタル戦でメキシコ代表のシンボルでもあるハレド・ボルヘッティを外して、僕を使ってくれました。でも僕はその期待に応えられなくて、チームも0-2で負けてしまいます。監督はボルヘッティを外して負けたということで批判されて、解任されました。せっかく僕を買ってくれたにもかかわらず結果を出せなくて、凄く申し訳がなかった。僕もその試合以来、2度とトップチームに呼ばれなくなります。あらためて結果が大事なんだと突き付けられました。パチューカでの半年が終わって、次もメキシコの2部チーム(イラプアト)に渡って半年で10ゴールを決めることができました。
メキシコからスペインへ
――そして2006年、中南米を離れてスペインに渡ることになります。
福田: スペインのほうでも興味を持ってくれているクラブがあるというので、航空チケットを用意してくれるから観光気分で行ってみようかなという感じでした。メキシコ1部のクラブと交渉していたので、スペインでプレーするというのはそこまで現実的に考えていなかったと思います。
――スペイン2部のカステジョンに練習参加してみて「観光気分」はどうなったのですか?
福田: スペインのサッカーに魅了されてしまいましたね(笑)。観光気分から『やってみたい!』に変わりました。紅白戦で凄いボレーシュートが決まって、翌日の新聞に『キャプテン翼がやってきた』と報じられたんです。もう僕もその気になってしまって。メキシコにいた家族を呼んで、カステジョンでプレーすることを決めたんです。
――このときに面白いエピソードがあったとか?
福田: そうなんです。メディカルチェックの際に胸のレントゲン写真を撮ったら、肺が縦写真では収まりきらなかったんです。標高2500メートル近いところでずっとサッカーをやっていたんで肥大して、肋骨をグッと押し上げている感じでした。結局、横写真にして、クラブの人も目を丸くしていましたね。
――実際にプレーしてみて南米と欧州の違いというものはどうだったのでしょう?
福田: パラグアイ、メキシコとはまったく違うピッチでした。中南米は芝が長くて、ボールが止まりやすい。でもスペインは芝が短くて、土は粘土質。練習前はスプリンクラーで散水するので、ボールが止まるどころかメチャメチャ速い。そのギャップもあって最初はボールコントロールに苦しみましたし、判断のスピードも上げていかなきゃいけない。シーズン途中の1月に移籍して残り半年で2ケタ得点はマストとして取るという思いがありました。パラグアイでもメキシコでも2ケタは取っていたんで、絶対にやってみせると。でも2、3カ月経ってもなかなか順応できなかったですね。
――ほかに何か要因があったのでしょうか?
福田: 文化や気質の違いもありました。中南米はどちらかと言うとフレンドリーで試合後はみんなでバーベキューをやったこともありましたけど、スペインは1人ひとりが独立している感じで、評論家のように自分のサッカー観を持っていました。それに同じスペイン語といっても、メキシコ訛りだとちょっと笑われたりして言葉が出づらくなったりというのもありました。サッカーでも私生活でも、戸惑いが続きました。
“失格の烙印”からの粘り勝ち
――カステジョンでは活躍できないままシーズンを終えることになります。
福田: クラブの人から『お前はスペインでは無理だ』と言われました。もう悔しくて悔しくて……普段ならオフに入ると日本に一度戻っていたんですが、帰ったらもうスペインでプレーすることはないなと勝手に思い込んで、スペインでコンディションを上げることにしてチャンスを待ちました。お金よりも、プレーできることが優先。そこで出会ったのが2部のヌマンシアでした。テスト期間は1週間と言われていたけど、3日目でOKが出たんです。スペインでのチャレンジが続くことを嬉しく思いました。
――そのヌマンシアでは1シーズンを過ごし2ケタ得点をマークします。
福田: 自分がプレーしていたカステジョンとの試合で、移籍後初めてのゴールを決めて勝つことができました。失格の烙印を押されたカステジョンの人に『俺が言ったことは取り返しがつかないけど謝る。お前の粘り勝ちだ』と言ってもらえたんです。スペインに残って本当に良かったなって心の底から思いました。
日本への帰還
――スペイン、ギリシャを経て2009年10月、故郷の愛媛FCに移籍することになります。
福田: ギリシャのチームで給料未払い問題があって、辛い時期でもありました。そんなときに愛媛FCから『一緒にやりませんか』と誘いがありました。そのシーズンは登録上出場できませんが、10月から給料をいただくなど配慮してもらったのはありがたかったですね。『愛媛を一緒に盛り上げましょう』と言ってくれて、僕も愛媛のために頑張ろうと思いました。
――愛媛FCでは2010年から3シーズンにわたってプレーすることになります。どんな思い出がありますか?
福田: キャプテンをやらせてもらった1年目ですね。なかなか思うようにはいかないなというのが最初に感じたことでした。でもチームメイト、スタッフ、サポーターが僕のことを支えてくれて、夏場以降、チームに勝利が続いて結果が出てきました。キャプテンとしていろいろと考えましたけど、チームを変えていきたいというみんなの気持ちが大きかったのかなと思います。3シーズン、本当にいい経験をさせてもらいました。
――さすらいの旅は続きます。2012年からは香港プレミアリーグで4シーズン、プレーして、プロ20年という節目の今年、引退を決意されました。現役生活を振り返ってみて、どうでしょう?
福田: いろんな経験させてもらいましたし、凄く価値のある選手生活だったと思います。世界を回るなかで、家族も一緒でした。妻と3人の娘が支えてくれて本当に感謝しています。自分にとっても家族にとっても大きな財産になったと思います。自分にしかできない経験をしてきたという思いはあります。近い将来、自分と同じような経験を望む若い選手たちが出てくれば、タイムリーにアドバイスしていければいいですね。心に刻んだ嬉しい思い出、苦しい思い出が次の世代のいい教材になればいいかな、と思います。横浜FCの強化ダイレクターという新しい仕事はまだ慣れていないし大変ですけど、頑張っていきます。
(おわり)
(聞き手/二宮寿朗)