クラブW杯決勝で欧州王者のレアル・マドリードを追い詰めた鹿島アントラーズと言えば、国内では「勝負強いクラブ」として通っている。Jリーグ創設以降に獲得した国内3大タイトルは18。これはJクラブ最多である。

 

 勝負強さの遺伝子――それは91年1月にまで遡る。Jリーグに参入するクラブを決める最後の会議(プロ化検討委員会)は、10クラブ目をどこにするかで白熱した。

 

 当落線上にあった2つが鹿島の前身にあたる住友金属と湘南ベルマーレの前身・フジタ工業である。母体チームを持たない清水FC(現・清水エスパルス)の行く末を危ぶむ声もあったが、地域密着型クラブのモデルケースとして了承された。

 

 住金がプロリーグ参加の意思を正式に表明したのは90年に入ってからである。住金はJSL2部の弱小チームだった。プロリーグ検討委員会委員長の川淵三郎は「住金のプロ参加を認めることは99.9%ないけれど、屋根の付いた1万5千人収容可能のサッカー専用スタジアムをつくるなら話は別だ」と住金に高いハードルを設けた。体よく断ったつもりだった。

 

 ところが茨城県の了解を取り付けた住金は「日本初のサッカー専用スタジアムをつくりましょう」と言ってきた。川淵にすれば“うれしい誤算”だった。

 

 そして迎えた検討会議。選手の代表として奥寺康彦とともに出席していた加藤久の一言が流れを変えた。「戦力は移籍や育成でカバーできる。むしろ、これからはインフラの時代だ。屋根付きのスタジアムに100億円も出せるところなんて、そうはない。これだけのスタジアムができれば地域全体でクラブを応援するだろう。欧州のようなサッカータウンが誕生する可能性もある。僕はイエスです」。事実上、住金のJリーグ参入が決まった瞬間だった。

 

 時計の針を巻き戻すことはできないが、もしJリーグ創設時点で住金が参入していなかったら、スタジアム建設の機運はしぼみ、鹿嶋市一円がサッカータウンとして全国的に名を馳せることもなかっただろう。

 レアルとの試合を加藤は「失うものがないチームの強さが出た」と評した。Jリーグ参入からして0.1%の難関をくぐったのだ。クラブの不屈の原点が、ここにある。

 

<この原稿は16年12月21日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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