政治の世界で言えば「追い込まれ解散」か。記者会見を見ていてのイメージは「追い込まれ解任」である。サッカー協会は日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチの解任を発表した。ロシアW杯まで約2カ月と迫った中での決定である。


 マリとウクライナを相手にしたベルギーでの2試合は、内容的にほとんど見るところがなかった。収穫があったのは少々、無理をしてでもゴールに向かおうとする強い意志を感じさせた初代表、中島翔哉の野心的な自己主張くらいだった。


「ボールを保持しながら流動的にできればよかったが、それは監督が求めることではない」。宇佐美貴史のコメントが全てを物語っていた。それでは、ただ指揮官の顔色を窺うだけの“忖度サッカー”ではないか、と突っ込みを入れたくなったが、代表監督は人事権という最大にして最強の権限を握っている。しかもW杯は4年に1度なのだ。誰が「今の監督とはソリが合わないから、4年後を待つ」といえよう。代表監督が持つ権限の強大さは、官僚を自在に操る内閣人事局の比ではない。


 それにも増してハリルホジッチは強権的な指導者だった。これは元監督のフィリップ・トルシエにも言えることだが、アフリカ諸国で指揮を執ったことのある人物の振る舞いは、どこか植民地の総督風だ。選手の反乱を恐れるあまり、過剰に強いリーダーを演じようとする。あるいはカリスマを装おうとする。


 結果が出ているときは、それでもいい。だが結果が伴わないと、途端に求心力を失う。田嶋幸三会長は、「マリ戦、ウクライナ戦の後、選手とのコミュニケーションや信頼関係が多少薄れてきた」ことを解任の理由に挙げたが、そもそもコミュニケーションや信頼関係が成立していたかどうかさえ疑わしい。コミュニケーションとは、ある意味、感情を言語化する作業だが、それに長けていたとも思えない。今後、代表監督を選ぶ際は、実績や“身体検査”に加え、コミュニケーション能力も基準の1つに入れるべきだろう。言語障壁のある日本にやってくるのだから、なおさらだ。


 W杯の出場権を勝ち取った監督の解任は、この国では初めてである。これには賛否両論あるようだが、率直に言って私はやや遅きに失したと思っている。韓国に1対4と大敗した昨年12月のE-1選手権が潮時だった。だが、人のクビを切る作業は容易ではない。協会相談役の川淵三郎は自らのツイッターで、「(解任を)本人に告げる時の心境は胃が痛いどころの話ではない>と述べている。クビを切る辛さは協会の舵取り役を経験した人間にしかわからないということか。


 座して死を待つくらいなら、荒療治もやむを得ない。「1パーセントでも2パーセントでも、W杯で勝つ可能性を追い求めていきたい」。情緒的と言われるかもしれないが、私は田嶋の言葉に真摯さを感じた。


 だが、ひとつ苦言を呈したい。会見場のバックの濃紺はやめた方がいい。ただでさえ暗い会見が余計に暗く感じられた。代表監督のクビをすげ替えただけで、まだ何も始まっちゃいない。何も終わっちゃいない。戦いはこれからなのだ。明るめの色で新監督を送り出したい。

 

<この原稿は18年4月11日付『スポーツニッポン』に掲載された記事を、加筆修正したものです>


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