「近鉄時代のビデオ・テープを取り寄せ、動作解析をするとメカニック的に、ほとんどかわった点はない。強いていえば上半身がブレていることでしょうか……」
 受話器の向こうで野茂は言った。
 ニューヨーク・メッツを「解雇」になった直後のことだ。
 周知のように1997年オフ、野茂は右ヒジにメスを入れた。遊離軟骨、すなわちネズミを取り除いたのだ。
 しかし、術後の経過は順調で翌年のスプリング・トレーニング(キャンプ)の前には、もうキャッチボールができるまでに回復していた。
「おかげで、今は全く痛みもありません」
 と、明るい口調で話す野茂の姿が印象に残っている。
「今年こそワールド・シリーズに出てみたい。そのチャンスもあると思っています」

 しかし、シーズンが始まっても、トルネードは一向に吹き荒れない。コントロールを乱し、四球を連発してランナーをため、タイムリーを浴びるという悪いパターンが続いた。
 かつて“ノモマニア”といわれるほど盛り上がったロサンゼルス・ドジャースの本拠地ドジャー・スタジアムの観客からブーイングを浴びることも珍しくなくなった。

 そんな野茂を、ビル・ラッセル監督は「安定しないピッチャー」と見なし、好投していても、早め早めにリリーフを送った。
「僕を信用してくれないのか……」
 ピンチを招くと急にベンチの中でそわそわし始めるラッセルに対し、口にこそ出さなかったものの、野茂は明らかに不満を抱いていた。

 そして、シーズン途中のトレード。
「もうロサンゼルスの街は僕を必要としなくなった……」
 というセリフとともに、野茂はニューヨークへと旅立った。
 昨年6月5日のことである。

 だが、新天地のメッツでも、野茂は結果を出すことはできなかった。ワイルドカード争いが熾烈をきわめたシーズン終盤、野茂は自らの意思で先発ローテーションの一角を離れた。チーム事情を優先したのである。
 結局、昨シーズン、野茂は6勝12敗、防御率4.92とアメリカにやってきてから最悪の成績に終わった。

 1年目、13勝6敗、防御率2.54。
 2年目、16勝11敗、防御率3.19。
 3年目、14勝12敗、防御率4.25。
 ジャッキー・ロビンソン賞(新人王)、奪三振王、そして日本人初のノーヒッター……と栄光を欲しいままにしてきた男が、ついにメジャーリーグの壁にぶつかったのだ。

 試練は続く。先述したように、再起を誓った今年のスプリング・トレーニングで、野茂は突如、「解雇」通告を受けるという屈辱を味わった。
 つい、先ほどまで使っていたロッカーはロックアウトされ、グラウンドからも閉め出された。アメリカにやってきて5年目にして初めて味わうメジャーリーグの洗礼だった。

 いったい、野茂の何がかわったというのだろう。ヒジに異常はなく、メカニック面をチェックしても、以前とかわったのは「上半身のブレ」だけ。球速もフォークの切れも、さしてかわってはいない。
「でもなァ、ほんのちょっとしたことが原因で、ピッチャーはガラッとかわってしまうものなんだよ。自分では気付いていなくてもな」
 そんな感想を述べたのは、野茂を弟のようにかわいがる野球評論家の江夏豊氏。

 カメラマンを見つめながら、こう続けた。
「なァ、キミだってそうやろう。ちょっと指先をケガしただけでシャッターを切るタイミングが狂ってくると思う。指先の感覚ちゅうのは、本当に微妙なものなんだよ」

 私見だが、日本人は外国人よりも手や指の感覚を大切にする。それは日本語にはっきり表れている。「投手」「名手」「好敵手」……。おそらく人物を「手」と表現するのは、世界中で日本人だけじゃないだろうか。手や指へのこだわりは他民族の比ではない。

 それはともかく、ヒジを手術してからというもの、野茂は明らかに「別人」になってしまった。もしかすると、痛みは消えても、微妙な違和感が傷跡に残っているのかもしれない。それがフォームにブレを生み、コントロールを乱している原因になっているのだとしたら、なぁに、少しも心配することはない。

 今少し、歯車が噛みあうのを待てばいいだけの話だ。言ってみれば、ラジオのチューニング作業をしている最中なのだと、私は楽観的に考えている。雨の日もあれば雪の日もある。もちろん嵐の日も……。それが人生なのだ。ケセラセラだよ。

(後編につづく)

<この原稿は1999年10月発行『1ミリの大河』(マガジンハウス)に掲載されたものです>
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