「あいつは理想とするFWですよ。高さもスピードもあって、足元もうまい。一緒にやれたことは大きかった」
01年6月、劇的な延長Vゴールで契約延長を勝ち取った大木は吹っ切れたように直後のJ1セカンド・ステージで活躍をみせる。コンビを組んだのが当時の日本代表FW・久保竜彦(現・横浜FC)だった。大木と久保は同期生。ピッチ上でともにプレーすればするほど、大木は久保のほとばしるような才能を感じていた。

「(久保みたいな)ああいうFWがいたら、一緒のことをやってもかなわない。自分のプレースタイルを変えないといけないなと思いました」
 プロ入りしてからは、他のストライカー同様、ドリブルで切り込むスタイルを目指していた。高校時代はポストプレーヤーだったとはいえ、サンフレッチェ入りしたときのレギュラーは高木琢也(前横浜FC監督)。ポストプレーヤーの代名詞ともいえる選手だった。「これじゃ無理だ」。大木が別の形で生き残ろうと模索するのも無理はなかった。

 ところが選手生命のピンチを迎え、久保と2トップを形成する中では新たな変革が必要だった。自分で強引に突破するのではなく、いかに久保をいかすか。自らの進むべき道がはっきりした。
「あいつのプレーを見るのが好きなんですよ。次は何をやってくれるだろうと。コンビを組むと、いてほしいところにいてくれる。なんだか知らないけど息が合うんですよね。一番やりやすい相手でした」
 久保、大木の2人が攻撃陣を引っ張り、セカンド・ステージのサンフレッチェは快進撃をみせる。ファーストステージ13位のチームが3位に躍進。大木もステージ開幕戦に2ゴールをあげるなど、チームに大きく貢献した。
 
 チームに必要不可欠な選手

 ところが翌年、サンフレッチェは開幕から低迷を続ける。結局、シーズン総合で8勝19敗3分と15位に沈み、クラブ史上初のJ2降格。大木自身も肉離れを起こすなど、再び故障に泣かされた。久保、藤本主税といった主力が去る中、J1復帰を託されたのが、フランスW杯で日本代表のコーチだった小野剛(現・日本サッカー協会技術委員長)である。

「監督に就任する前、96年からサンフレッチェユースの担当をしていたときの第一印象はそんなに良くなかったんです。天才肌だけど、それ以上のインパクトはなかった。ところが監督になってトレーニングや試合をやると、最初の印象がサッと消えていった。驚きでした」
 小野が大木に惹かれたのは、そのサッカーインテリジェンスの高さだった。新指揮官はチームに合流すると、攻撃陣に対して前線から相手を追い込み、ボールを奪う練習を徹底して行った。「攻撃と守備に境界線はない」。前線からのディフェンスが生命線だと繰り返し、指導した。
「たいていの選手は動きを理解して、その場ではできるんです。ただ、状況を変えたときに応用できる選手は少ない。大木はそれができた。教えたことの本質を理解して、どんなに高い要求を出しても、きっちりとこなしてくれました」

 チームに欠くべからざる選手――小野はベテランの域に入ってきたフォワードに全幅の信頼を置いた。一方、大木も理論派指揮官との出会いが、自身のサッカー観を大きく変えたと述懐する。
「前線からの相手DFに対するチェックの仕方とか、今まで教わってこなかったことをたくさん勉強できました。小野さんと出会って、ディフェンスのことを考えてから試合に入るようになりましたね。攻撃にはどうしても好不調があって、ボールが足につかなかったり、周りと合わなかったりすることがある。でも、守備は頑張ればどうにかなると。守りがきっちりしていたら負けないんだという考え方に変わりました」

 小野さんに出会わなければ終わっていた

 小野に率いられたサンフレッチェは当初の予定通り、1年でJ1復帰を果たした。「3年でJ1優勝を争う」と目標に掲げたチームはMF・森崎浩司、DF・駒野友一ら若手が成長し、ガウボン、佐藤寿人といったストライカーの補強も行った。小野体制3年目となった05年シーズンはまさに勝負の年。そんな中、大木は新しい仕事場を得る。

 それはトップ下のポジションだった。大木が起点となり、中盤からのボールをワンタッチ、ツータッチでつないで前線に供給する。もちろんスキあらば後ろから飛び出し、ゴールをうかがう。守りでも他の選手を統率して、ピンチになる前に相手のボールを奪い返す。求められた役割は多岐にわたったが、大木はソツなくこなした。

 ポジション転向以降、パズルのピースがうまくはまったようにサンフレッチェは快進撃を始める。開幕から白星に恵まれなかったチームは引き分けを挟んで4連勝。4月16日のヴィッセル神戸戦では、FW・ガウポンに正確なパスを供給した後、一気にハーフウェイラインから走りこんだ。再びボールを受け、そのままゴール左隅へ流し込む。鮮やかなシーズン初得点。
「今日は、ベンの日でしょう。それくらい、すごかった」
 試合後、小野が絶賛する働きぶりだった。

 この年、サンフレッチェは最終的に7位だったものの、終盤までリーグ最小失点の堅守を誇った。攻撃でも佐藤寿人が日本人得点王(18得点)に輝いて、日本代表への扉を開いた。大木はリーグ戦で32試合3ゴール。攻守に必要不可欠な存在としてJ1では自己最多のゲーム数に出場した。
「トップ下といっても、他の人がイメージするものとは違いますよ。華麗なスルーパスがあるわけではない。ずば抜けた何かがあるわけでもない。ただ、小野さんと出会わず、あのままずっとやっていたら僕は終わっていた。そういう点では僕のサッカー寿命を延ばしてくれた監督です」
 あれから2年、小野も大木もチームを去った。しかし、大木は故郷のクラブで、小野の教えを基盤にプレーを続けている。そして、サッカー協会の要職についた小野も「指導者経験の中でも特別な選手。彼と一緒にやれて楽しかった」と教え子の様子を気にかけている。

 いつまでもサッカーがしたい

 そして全国的な猛暑が続く8月16日、待望の凱旋ゴールはやってきた。ホームで行われたベガルタ仙台戦。太ももの違和感で一時、戦線を離脱し、大木は4試合ぶりにピッチに立った。前半23分、左サイドに駆け上がったDF・森脇良太のクロスに勢いよくゴール前へ飛び込んだ。頭で合わせたボールがネットを揺らす。その瞬間、スタジアムに詰め掛けていた約3000人の観衆は、今シーズン1番といってよい盛り上がりをみせた。

 チームメイトは両手をあげたベテランを取り囲むと、丸刈りの頭をたたいたり、キスをしたりと手荒い祝福をした。「僕は見た目、怖いというイメージがあるんですが、若いやつらはいろいろちょっかいを出してくれるんでありがたいですよ」。大木がいかに故郷で愛されているかを象徴するシーンだった。

「三津浜の花火が上がった」。上位のベガルタに3−0と快勝し、望月一仁監督は大木の一発をこう表現した。夏はまもなく終わる。だが、季節はずれの打ち上げ花火が何発もあがることを誰もが待ち望んでいる。
「トリニダード・トバコ代表のドワイト・ヨーク(イングランド・サンダーランド)は今年で36歳ですが、フォワードからボランチに転向して成功した。大木もトップ下のポジションに入ってプレーの幅が広がったように、まだまだ伸びると思います」
 技術委員長として世界中のサッカーを視察している小野は06年ドイツW杯で予選敗退国のベストイレブンに選ばれた選手を引き合いに出し、31歳のこれからに期待を寄せた。

 何度も試合終了のホイッスルが鳴りそうだったサッカー人生。故郷のクラブに帰り、大木の現役生活はロスタイムに差しかかっているのだろうか。
「僕はいつまでもサッカーをしたい。そのためにも頑張らないと。やれるところがある限り、第一線で続けたい」 
 プレー、意欲ともに大木から衰えは感じられない。凱旋ゴールを決めた試合、ベンチに退いたのは後半12分だった。これこそ、大木のサッカー人生の今を示す時間かもしれない。オレンジのユニホームに身をまとい、地元サポーターを熱狂させる時間は、まだまだこれから何度もやってくるはずだ。

(おわり)


大木勉(おおき・すすむ)プロフィール
1976年2月23日、愛媛県松山市出身。ポジションはFW。南宇和高時代は同学年の友近聡朗と2トップを組み、2年時は全国高校サッカー選手権でベスト8入りを果たした。青山学院大を中退し、95年サンフレッチェ広島に入団。デビュー戦(対柏レイソル)で初ゴールを決める。その後は故障に悩まされ、00年には大分トリニータへ期限付き移籍。翌年からは再び広島に復帰した。久保竜彦、佐藤寿人ら日本代表クラスのFWとともにプレーし、その持ち味を引き出すスタイルは高い評価を受けた。07年より故郷の愛媛FCに移籍。これまでのリーグ戦通算成績はJ1で154試合出場28ゴール、J2で53試合9ゴール。177センチ、75キロ。背番号20。






(石田洋之)
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