<僕が弱かったので負けました。また頑張ります>

 これは2023年9月下旬に曽我部京太郎(現・日本体育大学4年)が恩師である越智雅史(現・愛媛県レスリング協会事務局長)へ送ったとされるLINEの文面だ。セルビア・ベオグラードで行われたレスリング世界選手権3回戦後に送信したものだという。越智から、このエピソードを聞き、短く綴られた潔い言葉の中に、曽我部の矜持が見て取れた気がした。

 

 時計の針をひとまず2020年春に戻そう。曽我部は生まれ育った愛媛を離れ、日体大に進学した。時は新型コロナウイルス感染症が拡大し、自粛ムードが高まっていた頃。スポーツに限らず日本中の大会やイベントが中止や延期を余儀なくされた。レスリングは身体的に接触伴う競技のため、実践的なトレーニングは難しい。せっかく日体大に入学したにもかかわらず、愛媛に戻らざるを得ない状況に陥った。

 

 日体大で活動できるようになったのは6、7月ごろだという。高校時代は目立たなかった課題も全国からトップレベルが集う日体大では、綻びとなる。曽我部は「まだ体の軸がブレブレだった。自分のスタイルを修正していっても全然うまくいかなかった。苦しかった時期」と振り返る。特別なトレーニングをせずとも、日々の鍛錬を怠らないことで地に足を付けていく。日体大の監督・松本慎吾によれば、「構えが安定してくれば失点がなくなり、攻撃も安定してくる」とブレがなくなってきたことにより成績は上向いていった。

 

 安定し始めた攻守

 

 加えて大学2年の5月、東京オリンピックの世界最終予選に同階級の日体大OB高橋昭五(当時・神明精肉店所属)が出場するため練習パートナーと帯同したことが曽我部には大きかった。直後の全日本選抜では日体大OBの遠藤功章(現・東和エンジニアリング)に初勝利を挙げた。高校時代の初対決では全く歯が立たなかった相手からの白星。その余勢に駆って、大学3年時には全日本選手権で初優勝を果たし、シニアの大会で初の日本一となった。高校時代から掲げていた「パリオリンピックで金メダル」という目標への道筋がようやく見えてきた。翌年の世界選手権で5位以内に入れば、出場枠を獲得。メダルを手にすれば、パリオリンピック日本代表に内定するからだ。

 

 2023年6月、世界選手権代表を決めるプレーオフが東京・ドーム立川立飛で行われた。対戦相手は遠藤。日本レスリング協会によると、この試合までの対戦成績は曽我部が2勝5敗と負け越していた。2週間月前の全日本選抜選手権決勝では3-3の同点ながらラストポイントの差で敗れた。

 

 明暗を分けたのが、腹這いとなるパーテレでの攻防だった。「前半で自分がグラウンド(の攻撃)を取るという気持ちで前に出続けた」と曽我部。先にパッシブ(消極的姿勢)を取られたのは遠藤で、曽我部が1点先取した。さらにパーテレの状態から攻撃。一度は投げをかわされたが、場外際でローリングし、2点を加えた。

 

 第2ピリオドは曽我部がパッシブを取られ、3-1と点差を詰められた。パーテレの状態から遠藤は何度も曽我部を返そうとしたが、マットにしがみ付くように耐える。最後はリフトからの投げを食ったが、それより先に曽我部の右足が場外に出ており、場外ポイントの1点に抑えた。窮地での咄嗟の判断が光った。

「余裕があったわけではありませんでしたが、場外なら1点で済むということはわかっていました」

 

 遠藤陣営は投げ技が有効だと、チャレンジを要求した。映像判定の末、ジャッジは変わらず。チャレンジ失敗により曽我部に1ポイントが加わり、4-2とリード。残り1分43秒を「最後は気持ち」と曽我部は遠藤の反撃を凌ぎ切り、ベオグラード行きの切符を手にした。

「自分が絶対に世界選手権に出て、パリオリンピックの権利を獲得するという強い気持ちでこの試合を迎えました。遠くからこの試合のために応援に来てくれた人もいて、すごく力になりました。世界選手権では金メダルを取って、オリンピックの出場枠を取りたい」

 

 水を差された勝負

 

 8月のドイツ・グランプリを制し、シニアの国際大会初優勝を果たす。「コンディション的にも良くて、自分自身でも“絶対いける”という状態で挑んだ」。意気揚々と向かったベオグラード。初の世界選手権で曽我部は初戦(2回戦)を難なく突破した。

 

 3回戦で対戦したのが、東京オリンピック金メダリストのモハマド・レザ・アブドルハム・ゲラエイ(イラン)。世界選手権においては2大会連続メダリスト(21年金、22年銀)ゲラエイに曽我部は尻込みすることなく、ローリングで得点を重ね、第1ピリオドで7-0と大量リードした。

 

 第2ピリオドはゲラエイが反撃に遭う。残り1分15秒、9-10と1点差を追いかける曽我部の前に思わぬアクシデントが襲った。2階席からペットボトルが投げ入れられたのだ。マットに飛び散った水を拭くため、試合は中断を余儀なくされた。犯人は対戦相手の兄(モハマダリ・アブドルハミド・ゲラエイ)だった。曽我部からすれば、文字通り、勝負に水を差された。結局、この“水入り”はゲラエイにとって吉と出て、曽我部にとっては凶と出た。曽我部はゲラエイに逃げ切られ、3回戦敗退――。5位までが手にできるパリオリンピックの出場枠も獲得できなかった。

 

 2023年9月30日配信の日本レスリング協会に掲載された記事によると、曽我部は現地で、こうコメントを残している。

<あと一歩のところでポイントを取れないということは、その取り組みが足りなかったということ>

 ペットボトル投げで水を差されたことへの愚痴、際どい判定への不満が出てきてもおかしくない。それでも曽我部の口からは言い訳は出てこない。冒頭に紹介したように、恩師に送ったLINEでも、後ろ向きの言葉は一切綴られなかった。

 

 今年2月に日体大を訪ね、インタビューした際も「7-0でもう1回(相手を)返せばテクニカル(スペリオリティー)だった。そこを返しきれなかったのが、まだまだ自分の足りない部分だと思いました」と敗因を他に向けるのではなく、自分の中に求めた。

「むちゃくちゃ悔しい気持ちになったので、“誰よりも強くなってやろう”と切り替えました。自分には金メダルを獲るという目標がある。落ち込んでいる場合じゃない」

 

 迎えた12月の全日本選手権で決勝に進み、遠藤と再戦。この試合に勝った方が67kg級のアジア予選、最終予選に進む。第1ピリオドは2-0とリード。しかし第2ピリオドに4-5と逆転を許してしまう。このままではパリ行きの可能性はなくなる。意地を見せる曽我部は投げを打ってひっくり返す。さらにローリングで加点し、8ー5とリードを奪い返した。残り45秒、そのままリードを守り切った。熱戦の末、曽我部。全日本2連覇を達成した。「“遠藤先輩に勝ちたい”という思いで毎日練習していたので、自分は成長できた」。パリオリンピック出場権獲得へ、“先輩の分まで”という思いは強い。

 

 4月、キルギス・ビシュケクへ向かい、ベオグラードでは掴めなかったパリオリンピックの切符獲りを狙う。春にサクラサクーーという吉報を待ちたい。

 

(おわり)

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曽我部京太郎(そがべ・きょうたろう)プロフィール>

2001年7月3日、愛媛県今治市生まれ。男子グレコローマンスタイル67kg級。小学3年時、今治少年レスリングクラブで競技を始める。今治西高を経て、20年にレスリングの名門・日本体育大学に進学。高校生時に国体3連覇(1年=55kg級、2年=60kg級、3年=65kg級)を果たすなど頭角を現す。日体大進学後は2年時の全日本学生選手権(67kg級)で優勝すると、3年時に全日本選手権(以下同級)優勝、U23世界選手権で3位に入った4年時にはアジア選手権準優勝、ドイツ・グランプリを制するなど国際大会で結果を残し、世界選手権にも出場した。身長169cm。座右の銘は「人一倍」。

 

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(文・写真/杉浦泰介)

 

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