近藤貫太(慶應義塾大学ソッカー部/愛媛県今治市出身)第4回「安泰のレギュラーを捨てる決意」
愛媛FCユースに所属していた近藤貫太は高校1年のときから3年間、2種登録選手としてトップチームに帯同していた。クラブとしてもトップチームに上げたいと思うのが自然だろう。しかし、プロの下部組織に属しながら進学校の今治西高校に通っていた高校3年生が下した決断は大学進学だった。
“らしさ”が垣間見えた慶應選択の理由
<2016年8月の原稿を再掲載しています>
当時の心境を近藤はこう語った。
「サッカーに関しては、すごく自信があった。ですが、このときにプロに進まなかったのは、勉強や教養も大事なんだと思っていたからです。高校のときも勉強もきちんとしながらサッカーをやっていました。今、プロに行くのか、それとも大学に進学するのか。どちらが大事かすごく考えて、愛媛FCの育成総括ディレクターに“大学に進学する”と伝えました」
大学進学を決めた近藤は慶應義塾大学を進路先に選んだ。“なぜ慶應なのか”と近藤に質すと「練習に参加した時の雰囲気、サッカー環境……」といくつか理由を挙げてくれたのだが、最後の理由が実に近藤らしかった。
「ほかの大学に入るとなるとスポーツ系の学部になる。“自分がしたい勉強は何なのか”と考えたときに“慶應の総合政策部で勉強したいな”と思いました」
勉強面でもきちんと目的意識を持っての進路選択だった。
2012年、近藤は慶應義塾の門をくぐると同時にソッカー部へと入部する。すると早速、関東大学サッカーリーグの開幕スタメン出場を果たした。5月末に左足腓骨脱臼骨折で3カ月ほど戦線離脱を余儀なくされたが、ケガが癒えるとレギュラーに復帰。2年時には期待を込めて11番を託される。
感じ始めた“焦り”とは……
ケガはあったが、順調に大学サッカー生活をスタートさせた近藤。しかし、2年の前期終了と同時に慶應ソッカー部を退部する。
安泰だったレギュラーという地位を捨ててまで、近藤が得たかったものとは何だったのか。
「リオ五輪の年、僕はちょうど23歳になるんです。僕が高3のときに入っていた代表の(FIFA U-20W杯 トルコ2013アジア一次予選メンバー)ときのメンバーの23人中21人がプロの世界へいきました。自分も五輪出場を目指していた。みんなは自分よりもっと厳しい環境で苦労しつつも、その中で活躍している選手もいたんです。五輪に出るためにはそういう選手たちと競争しないといけない。そこですごく焦りがでました」と、この時の決断理由を近藤は説明する。
大学を休学し、プロを目指そうとする近藤の決断を時期尚早だと感じていた人物がいた。母・順子である。「私は反対だったんです。“プロに行くのは、大学を卒業してからでもいいのでは”と思っていました。貫太が退部する前に主人と私は須田(芳正)監督のもとにお伺いしました」
母はこう言った後に、続ける。
「貫太は退部すると心に決めていたのでしょうけれど、監督は“どうにか残るように本人を説得してみます”と言ってくださったんです。もう、そのときの須田監督には感謝の気持ちでいっぱいです。それでも、本人の意志が強かったみたいで……」
家族、須田監督のアドバイスに耳を傾けつつも、近藤は自らの意志を貫きプロの道へと歩み出す――。
(最終回につづく)
1993年8月11日、愛媛県今治市出身。幼稚園の頃からサッカーを始める。今治市サッカースポーツ少年団イーグルス―愛媛FCジュニアユース―愛媛FCユース―慶応義塾大学―愛媛FC。高校1年時からトップチームに2種登録され、3年時にはU-18日本代表に選出された実績を持つ。強烈なシュート、鋭いドリブルが武器のアタッカー。164センチ、61キロ。
(文・写真/大木雄貴)