近藤貫太(慶應義塾大学ソッカー部/愛媛県今治市出身)第3回「剛と柔の融合」
愛媛FCジュニアユースに所属していた中学3年時から近藤貫太は、1つ上のカテゴリーであるユースの練習にも参加した。全ての者がジュニアユースからユースへと昇格できるわけではない。それでも近藤は「(昇格するかどうかで)ドキドキした記憶はないですね」と振り返る。飛び級が常だった近藤にすれば、当然と言えば当然だった。
<2016年8月の原稿を再掲載しています>
福田健二も感じた近藤の“自信”
高校入学後、順調にユース昇格を果たすと8月に転機が訪れる。2種登録選手として、ユースに籍を置きながらトップチームの練習にも参加するようになったのだ。2種登録とはトップチーム(1種)の下部組織(2種)の選手をトップの公式戦にも出場できるようにする措置である。近藤がいかにクラブから期待されていたかが分かる。近藤は高校1年の夏から卒業まで、2種登録選手としてトップの練習に参加し続けた。
当時の近藤の姿を知る男がいる。過日、現役を退き、7月1日付で横浜FCのダイレクターに就任した福田健二だ。2009年から12年まで愛媛FCに在籍した福田はこう語った。
「小柄ですけど足元の技術がありますね。凄く自分に自信を持っていました。(当時愛媛FC監督、イヴィッツァ・)バルバリッチ監督も評価していたし、トップの選手たちも、将来貫太はトップに上がってやっていくだろうな、と思っていました」
高校時代から自らに確固たる自信を持ち、プレーをしていた近藤。既にアスリートとして一番大事な要素を備えていた。トップチームの選手さえ近藤の“自信”を感じるほどに。
多忙を極めた高校3年時
ユースとトップチームの“二足の草鞋”を履いていた近藤が、3年生になるとより多忙を極める。吉田靖監督率いるU-18日本代表に選出されたのだ。
近藤はU-18代表時代をこう振り返る。
「高校生として学校生活もある中で、1カ月に1回は合宿に行っていました。SBS(国際ユースサッカー)カップがあって、カタール遠征、アメリカ遠征……。吉田監督はずっと自分のことを選んでくれたんです。そしてスタメンで使ってくれて、良い経験をさせてくれましたね」
この話を聞くだけでも当時の近藤のタイトなスケジュールを想像するのは難しくない。普通の17、18歳の青年だと精神的なストレスから周囲との距離を置きたくなるものだろう。しかし、母・順子はそれを否定する。「“あれが反抗期だったのかしら?”というくらい、反抗期は一瞬でした。割と家でも話す方です。男の子特有の部屋に1人でひきこもってしまう、というのもなかった。いつも家族と一緒にリビングにいる子でしたねぇ」
文武両道を選択
物怖じしない性格であるため、誤解されることも少なくない。だが、それは彼の表面的な部分でしかない。インタビュー中、近藤から“周囲の人を大切にする”瞬間が見え隠れしていた。サッカー部の後輩への何気ない声かけ、須田芳正監督への謝意を語る姿……。周囲の人たちに対して感謝の気持ちを忘れず、柔らかな表情で接している。その一方で、確かな自信を持ち、鋭い眼差しで「冷静でいることだけが、正解だとは思わない」と熱い一面も覗かせる。1つの体の中に剛と柔のキャラクターが同居しているのが、近藤の一番の魅力なのかもしれない。
3年時にユース、トップ、代表と走り続けてきた近藤は、秋冬に進路を決める時期に差し掛かった。彼は愛媛の下部組織に属しながら、勉強にも向き合い進学校の今治西高校に通っていた。近藤は「勉強や教養も大事」という理由から大学進学を選択する。
だが、第1回でも触れたように、大学2年で近藤は1度休学する。プロの道へと進むためだ。この時の近藤は“焦り”を感じていたのだった――。
(第4回につづく)
1993年8月11日、愛媛県今治市出身。幼稚園の頃からサッカーを始める。今治市サッカースポーツ少年団イーグルス―愛媛FCジュニアユース―愛媛FCユース―慶応義塾大学―愛媛FC。高校1年時からトップチームに2種登録され、3年時にはU-18日本代表に選出された実績を持つ。強烈なシュート、鋭いドリブルが武器のアタッカー。164センチ、61キロ。
(文・写真/大木雄貴)