「オレって、なんて幸せ者なんだろう……」
 レフトの守備についた田中幸長の目には涙が溢れていた――。
 2007年6月17日、大学野球の聖地、明治神宮球場では全日本大学野球選手権決勝戦が行われていた。

 試合は中盤にさしかかっていた。早稲田大学リードで進んでいたものの、優勝の行方はまだわからない。 
 田中はふと、球場全体を見渡した。2万人近い観衆が自分たちのプレーを真剣なまなざしで見つめていた。
「大学日本一を決める大舞台に自分は立っている。しかも、こんな大観衆の前でプレーしているんだ、と改めて考えたら、涙が出てきてしまいました。今まで苦労してきたことなどが次々と思い出されて……。まだ優勝もしていないのに、一人泣いていました」
 
 実は、田中の学年は“谷間の世代”と呼ばれてきた。新チーム発足時、應武篤良監督からは「今年のチームは(リーグ戦)3勝8敗の力しかない」と言われたという。
 そう言われて悔しくないはずはなかった。だが、実際、4年でレギュラーは自分を含めて3人しかいない。特に投手陣は宮本賢、大谷智久と昨年まで主力だった2人の投手が卒業し、3年の須田幸太以外は全く計算が立たない状態だった。
「1、2年の力を借りなければ優勝はない」
 そう冷静に現実を受け止めた田中は1、2年がやりやすい環境をつくろうと自ら積極的に声をかけた。
「僕が1、2年の時は、優しい人ばかりだったけど、やっぱり4年生は怖い存在でした。だから、何でも遠慮しがちでした。でも、僕らは1、2年が思う存分、力を出せるような雰囲気づくりをしようと。だから、練習でも試合でも常に『オレらに遠慮せず、思いっきりやれよ』と言い続けました。そのおかげで、いつもベンチはいい雰囲気で試合ができています」

 早稲田が33年ぶりの日本一に輝くと、世間ではリーグ戦から好成績をおさめ、1年生ながら全日本選手権でMVPに輝いた斎藤佑樹への賛辞が相次いだ。しかし、斎藤ら1、2年の活躍の陰には田中ら4年の支えがあったのだ。

 ズシリときた背番号『10』の重み

 田中が97代目の主将に就任したのは、昨年11月のことである。早稲田大学野球部では3、4年の投票によって、新主将が決定する。そして、六大学リーグでは主将が背番号「10」を付けることが昔からの慣わしとなっている。
「主将に選ばれるだろう、ということはおおよそわかっていました。だから、実際に選ばれた時も特に驚きはしなかったんです。でも、偉大な先輩たちがつけてきた背番号『10』のユニホームに袖を通したときは、背中にズシリと重みを感じて緊張感が走りました」

 早稲田の野球部寮には“キャプテン部屋”というものがある。その名の通り、代々引き継がれてきた主将専用の部屋である。
 引っ越しの日、田中が部屋に入るとボードには前主将の宮本からのメッセージが書かれてあった。
「プレッシャーとは思わずに、キャプテンに選ばれたことに喜びを感じてやれよ」
 なんだか肩の荷がスッと軽くなったように感じた。

「宮本さんもそうでしたが、頭でアレコレ考えることよりも、まずはプレーでチームを引っ張りたいと思いました。自分が思いきりよく楽しんでプレーする姿を見せれば、他の部員もついてきてくれる、そう思ったんです」

 だが、そんな田中に試練が訪れる。オープン戦が間近に迫っていた今年2月、バッティング練習をしていた際、左手を骨折してしまったのだ。
「実はその3日前に疲労骨折していて、痛みを押して練習していたんです。それでボールがバットの先っぽに当たった瞬間、激痛が走りました。もう痛くて痛くて……。完璧に折れたな、と」

 ところが、すぐに病院で診てもらうと「折れてないから大丈夫」と言われた。「そんなわけがない」と思った田中は翌日、他の病院でも診てもらった。すると、またもや「ヒビが入っている」という程度の診断だった。
「ヒビだけじゃないと思います。もっと詳しく診てください」
 そう迫る田中に医師は他の病院を紹介した。3つ目の病院でようやく「左手有釣(ゆうこう)骨骨折」という診断が出た。少しでも治りが早いなら、と田中はすぐに手術することを決意した。
「あの時、医師の言うことを鵜呑みにして放っておいたら、と思うと怖くなりますよ(笑)。治りも遅れていたでしょうから、今の好調さはなかったわけで」
 そう言って、田中は冗談ぽく笑った。

 だが、田中の苦難はここからだった。「プレーでチームを引っ張りたい」と考えていたのに、練習にさえも参加できない。「主将の自分が先頭に立って頑張らなければいけないのに……」。練習できないことへの焦り、そしてそれ以上にチームに迷惑をかけている自分への苛立ちを感じながら、田中はひたすら外野を走り続けた。
 結局、田中は完治しないままオープン戦の途中から出場した。完全に痛みが消えたのは、リーグ戦も終盤になってからのことだった。
 全日本選手権での涙は、この時の苦しみに耐え抜いたことへの感慨と、監督、チームメイト、両親……これまで自分を支えてきてくれた人たちへの感謝の気持ちが入り混じったものだったに違いない。

 目指すは横浜・村田修一

 リーグ優勝、大学日本一――。
 この春、田中はこれ以上ない最高のシーズンを送った。リーグでは打率.390、12打点をマークし、堂々のベストナイン。7月に開催された日米大学野球選手権のメンバーにも選出され、個人的にも充実していたという。
 だが、一つだけやり残したことがあった。ホームランである。現在、田中の大学での通算本塁打は7本。少なくともあと3本打って、2ケタに乗せたいところだ。

「ケガをしていたこともあって、春は大きいのを狙わずにチームバッティングに徹しました。そのおかげでいい仕事をすることができたと、満足しています。でも、1本もホームランを打つことができなかった。この点に関してだけは、納得できていません。
 7月に参加した日米野球では、米国選手を間近で見て、自分とのパワーの違いを改めて感じました。今から走り込みやウエイトトレーニングでしっかり鍛えて、秋にはホームランを打ちたいですね」
 そういう田中の視線の先にはNPBがある。目指すは横浜ベイスターズの若き主砲、村田修一だ。

 大学4年間の集大成となる東京六大学秋季リーグまで、あと約1カ月。着慣れた早稲田のユニホームに袖を通すのも、そう長くはない。
「この間、尊敬している越智良平さんに電話をしたんです。そしたら、『日本一、おめでとう。正月には一緒に飲もうな』と言ってくれました。もう、楽しみで楽しみで仕方ありません」
 電話の向こうでそう嬉しそうに語る田中の声からは、何の気負いも感じられなかった。「自分と仲間を信じてやるだけ」。そんな心境なのかもしれない。

「念ずれば、花開く」
 田中の座右の銘だ。四国の小さな田舎まちで育った少年が、今や日本一の主将となった。「自分ならやれる」。いつもそう信じて努力してきた。今もそしてこれからも、それは変わらない。

「秋も活躍、楽しみにしています」
 そう言うと、彼は元気よく答えてくれた。
「はい、期待していてください!」
 田中幸長、早稲田大学野球部97代目主将――。彼ならきっとこの秋、“有終の美”を飾ることができるに違いない。


田中幸長(たなか・ゆきなが)プロフィール
1986年2月1日、愛媛県伊予市出身。小学1年からえひめ港南リトルリーグに所属。中学1年時には4番としてチームを全国大会ベスト8に導いた。宇和島東卒業後、早稲田大学に進学。ベンチ入りを果たした1年秋には初打席から2打席連続代打本塁打を記録し、注目を浴びた。2年春から4番に座る。大学での通算本塁打は7本。昨年11月に97代目主将に就任した。178センチ、82キロ。右投右打。









(斎藤寿子)
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