数年前からブラジルサッカー界は、国の好況の影響を受けて、高年俸の選手が増えている。その象徴が、08年12月にコリンチャンスへ移籍したロナウドだった。彼の月収は180万レアル、日本円に換算して約9000万円になる。
ロナウド以降、デコ、フレッジなど代表クラスの選手たちが次々と母国のクラブに帰国した。彼らの月収は50万レアル(約2500万円)を超えている。
しかし、こうした給料を支払えるのはごく一部のクラブだけである。
(写真:現在は指導者として活躍する呂比須ワグナー 撮影:西山幸之) パウリスタFCで働くようになって、呂比須が驚いたのが、練習着が一着しかないことだった。朝練習をすると、午後の練習までに洗濯をしなければならなかった。
通常、練習着と試合のユニフォームは同じメーカーの製品を使用する。ところが、パウリスタでは、練習着は昨年のものを流用していたので、ユニフォームとはメーカーが違っていた。メディアへの露出が少ないパウリスタでは、誰もそれを問題にすることはなかった。
さらに選手の給料は低いだけでなく、3か月近く支払いが遅延していた。勝利給もほとんどない。
コリンチャンスに勝利した後、選手を集めてささやかな祝勝会を開きたいと呂比須はクラブに掛け合った。ロナウドのいるコリンチャンスに勝利したのだ。選手たちをねぎらってやりたい気持ちだった。
ところが――。
クラブの人間は予算がないと渋い顔をした。
試合後、ドーピングチェックを受けた選手を待って、空いている店を探した。パウリスタのあるジュンジャイは、サンパウロと違って深夜までやっている店は少ない。結局、出かけるのを諦めて、パンとハムなどを買ってきてサンドイッチを作って食べさせた。その代金は、呂比須が支払った。
(写真:スタジアムの中にある、パウリスタの質素なロッカールーム) 日産自動車(現横浜F・マリノス)へ行く前、呂比須はサンパウロFCにいた。サンパウロFCは、ブラジルでも最も近代的な経営をしているクラブの一つだった。改めてサンパウロFCは恵まれていたのだと気づかされた。
自分がいかにブラジルの一般的なクラブの現状を知らなかったのかと、呂比須は頭を殴られたような気になった。
「選手たちに、あなたたちはプロでしょ、と言うことができない。給料貰っているんだから、もっと頑張りなさいって言えないんですよ」
それでも、希望は捨てていない。ブラジルにはこんな言葉がある。
〈ブラジルでは、優れた選手はキロ単位で生まれてくる〉
今も昔もブラジルサッカーの最大の財産は、次々と現れる才能である。
そのいい例が、2010年のサントスFCだった。
サントスの中心は、ガンソこと、パウロ・エンリケとネイマールである。
ガンソの痩身で懐の深いボールキープ、視野の広さはアルゼンチン代表のファン・ロマン・リケルメを思い出させる。リケルメよりもスピードがあり、左利きである。
そしてネイマール――。
ロビーニョを思わせるような巧みな足技と、鋭い飛び出し。ブラジルらしい香りを漂わせた選手である。
2人の他に、9番のセンターフォワード、アンドレ、ウェズレー――みな20才未満で、サントス下部組織出身だった。彼らは、?メニーノス・ダ・ビーリャ?(直訳すると「街のガキども」。ビーリャはサントスの練習グラウンドの名前)と呼ばれていた。
呂比須にとって、サントスの成功は身近に感じらた。
「サントスが注目されるようになった時の監督は、ドリバウ・ジュニオールだった。でも、その基礎を作ったのは、09年に監督を務めていたヴァグネル・マンシーニだと思っている。マンシーニが05年にパウリスタで監督を務めている時、ぼくはヘッドコーチだった。彼の指導方法、考え方はぼくに良く似ている。だから、マンシーニがサントスで選手たちにどういった準備をさせたのかは想像できる」
(写真:サントスFCの体育館で、フットサルをする下部組織の子どもたち。ここから、次々と才能が現れてくるのだ。) つまり――。
才能ある若手選手をいきなりトップチームに上げても潰れる。まずは当たり負けしない身体作りをさせる。そして、細かい技術の修正を加えていく。
若手を育成する上でもっとも大切なのは、プロフェッショナルな選手としての心構えを教えることだと呂比須は考えている。
「練習前に、目を瞑って今日はどんな課題を持って望むのか考えさせるんだ。何も考えずに練習しても意味はない。例えば、今日のシュート練習では何に気をつけるのか考える。それを続けていけば、自然と充実した練習ができるようになる。
集中すれば、試合と同じように練習ができるようになる。練習でできることが試合でできる。そういうことを若い時に教えることが大切なんですよ」
若い選手は、起用にも気を配らなくてはならないという。
「チームが苦しい時に使わない方がいい。リスクが大きい。チームが上手く機能している時には、経験のない選手が1人ぐらい入っても問題はない。そこでチームに馴染ませていくことが必要」
呂比須は、特に若い選手の目線まで降りて、話し合うことを大切にしていた。こうした努力を積み重ねていけば、メニーノス・ダ・ビーリャのように若くて能力のある選手が出てくるという手応えがある。
「そうして育った選手が活躍した時、もしかしてぼくはこのクラブにいないかもしれない。でも、ぼくの名前が出なくてもいいんですよ、いい選手が育ってくれれば」
自己主張の強い人間が多いブラジルで呂比須の考えは異質だった。
「こんな顔をしていても、ぼくは日本人なんですよ」
呂比須はにっこりと笑った。
(つづく)
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田崎健太(たざき・けんた) ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。
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