二宮: 今回のゲストは“ミスターレッズ”福田正博さんです。ゆっくりお話しするのは初めてですね。福田さんはそば焼酎を飲んだことは?
福田: そば焼酎は初めてです。どんな味がするのか楽しみですね。

二宮: いける口ですか?
福田: 今はあまり飲む機会は多くないですが、現役時代も試合が終わった後は飲んでいました。焼酎を楽しみ始めたのは引退してからです。芋焼酎が流行った時ぐらいからですね。

二宮: 初めてのそば焼酎「雲海」の味は?
福田: 香りも程よくあって飲みやすい。すっきりしていますね。芋焼酎よりもそば焼酎のほうがいけるかもしれないなぁ。

 ミスターレッズ誕生秘話

二宮: 福田さんは 1989年、浦和レッズの前身である三菱重工サッカー部に入りました。プロは意識していましたか?
福田: いえ、まだプロ化の流れはなかったですね。「もしかしたらそういう方向に行くんじゃないか」という噂程度でした。ですから、僕が大学を卒業する時は、読売クラブ(現東京?)、日産自動車(現横浜FM)、ヤマハ(現磐田)というJSLでもプロ志向の強いクラブに行くか、もしくは終身雇用してくれる企業クラブかの選択肢があったんです。そこで僕はサッカーを職業とするのではなく、現役引退した後も会社に残れる企業クラブを選びました。また JSL1部のチームでプレーしたかったので、当時、1部に所属していた三菱か古河電工(現千葉)かで迷いましたね。

二宮: 三菱に決めた理由は?
福田: その頃、現在日本サッカー協会会長の大仁邦彌さんが、三菱の監督でした。大仁さんと何度かお会いして「是非、三菱に来てくれ」と言われたので、最終的に三菱への入社を決めました。ただ、入社が決定してから、三菱は2部に落ちてしまいましたが(笑)。 JSLのシーズンは当時、9月に始まって5月に終わるレギュレーションでした。三菱への入社が決まったのは 11月だったんです。その時期、三菱は調子が良くなかったんですけど、大仁さんが「今は調子が悪いけど、大丈夫」とおっしゃっていたので、それを信じました。ところが、年が明けてからも、どうも調子が悪い。結局、4月に入社してから降格が決まったんです。そのせいで、入社前に話のあったドイツ留学もなくなってしまいました(苦笑)。

二宮: 約束が違うじゃないかと(笑)。
福田: そうですよ。結局、監督の大仁さんも退任して、新体制となって1年で1部復帰を目標にシーズンが始まりました。ただ、そのシーズンで JSL2部の得点王となり、1部復帰の原動力になれたんです。この結果が評価されたからこそ、次の年に日本代表に入れたと思います。正直、最初は三菱に入社した選択を「失敗したかな」と考えた時もありました。ただ、自分で最終的に決断したので、文句を言わないでやろうと思ったことが最終的にいい方向へ転がったのかもしれません。

 チャンスをつかんだ自己主張

二宮: 92年には日本代表初の外国人監督にハンス・オフトが就任しました。 94年米国W杯を目指すわけですが、福田さんは当初、控えでした。
福田: オフトが就任してから、1週間ほどのキャンプがあったんです。実は、キャンプの時からオフトに対しては不信感を持っていました。合宿で僕の名前を呼んでくれなかったんです。監督が練習である程度、レギュラーを決めることはよくあります。僕もスタメンではないとは感じていました。ただ、指示を受ける時に名前ではなく、番号で呼ばれたことがあるんですよ。ですから、僕は「オフトの意向で代表に選ばれたんじゃないのか!?」と思うようになったんです。

二宮: 実際、オフトジャパン初陣のキリンカップでは、2試合とも出番がなかった。
福田: ベンチ入りメンバーで僕だけでしたからね。大会後のミーティングで、オフトが「ひとりひとりキャンプとこの2試合を含めて、世界で自分がどこの位置にいるか。また 100点満点で自分の点数を発表しろ」と言ったんです。でも僕は試合に出られなくてイライラしているから「1秒も使ってもらっていないから、点数なんかつけられない。逆になんでオレを選んだのか、本当にアナタが私を選んだのか。それを知りたい」と質問しました。

二宮: オフトの反応は?
福田: 笑っていましたね。その後、彼が何を言ったのかは覚えていません。ほかのメンバーはびっくりしていたようですけどね。僕は、もう代表には選ばれないだろうという覚悟でそう言ったんです。

二宮: しかし、その後も代表落ちすることはありませんでした。
福田: そうですね。キリン杯の約2カ月後にオランダ遠征があって、そこでチャンスをもらったんです。「もう終わりだ」と思っていただけに少し驚きましたね。ポジションは中盤だったんですが、3試合すべてに出場しました。コンディションがすごく良くて、オフトからも高い評価を得られたように感じました。

二宮: 8月のダイナスティーカップでは2ゴールを挙げて初優勝に貢献しました。
福田: 初めてやった2列目のポジションで、非常にいい働きができた。チャンスをもらって、それをしっかりつかめたと思いますね。

二宮: オフトと仕事をしてみて、それまでの指導者とはどこが一番違いましたか?
福田: ポジションごとの役割を明確に求めるところですね。僕の場合は右側のスペースに飛び出して行って、チャンスメイクをするというのがオフトのオーダーでした。あとはターゲットの高木琢也からのこぼれ球を拾うこと。そういう役割がはっきりしていたので、すごくやりやすかったですね。またオフトは試合後に選手がクールダウンしている時に、選手を呼んで評価してくれるんです。「今日のオマエはこれができた。逆にこれができていなかった」というふうに。

二宮: オフトはよくタスクという言葉を口にしていましたね。
福田: 役割に対して、しっかり責任を与え、それをしっかり評価する。評価することによって、次の目標がはっきり見えてくるんです。「今日は、これができなかった。だから次はこれができるように努力しなきゃいけない」と。そういうことの繰り返しで自信を深めていっていたような気がしますね。

 オフトの心理学者的な一面

二宮: オフトは規律(ディシプリン)、アイコンタクト、3ライン、スモールフィールドなどキーワードを多用しました。今の日本サッカーの礎を築いたのはオフトといっても過言ではないでしょうね。
福田: おっしゃるとおり。僕が本当にオフトのことをすごいと思ったのは、彼が就任してから韓国に勝てるようになったからなんです。それまではもう手も足も出なかった。それをオフトが「韓国はフィジカルは非常に強い。だけどサッカーはフィジカルだけのスポーツじゃない。日本には技術がある。ボールを回せばいいじゃないか」と言ってくれたことで変わったんです。

二宮: それまでの日本は、韓国に走り勝とう、フィジカルでも負けたくないという考えが強かったですね。
福田: その通りです。だけどオフトは「韓国のストロングポイントでわざわざ勝負する必要はない。違うところで勝負できるのがサッカーだ」と提案してくれたんですよ。彼が直接言ったわけではないのですが、指導を受けている僕はそういうふうに感じました。

二宮: 韓国を意識し過ぎていたと?
福田: 必要以上に韓国をリスペクトしすぎることで、敵を大きくしてしまっていたんでしょうね。それはなぜかというと、しっかりと分析できていなかったからです。相手のことを分析できていないし、自分たちの力もしっかり分析できていないから、勝手に相手を大きくしてしまって恐れていた。でも、オフトはそこをしっかり分析して、さまざまな試みをしました。今でも忘れられないのが、ダイナスティー杯の韓国との決勝戦。試合前の控室で、ホワイトボードに貼ってあった韓国のメンバー用紙をとって、くしゃくしゃにして地面に投げ捨て、足で踏みつけたんです。「オマエらのほうが強いんだ。何も恐れることはない」と。それで士気がグッと高まりましたね。

二宮: 心理学者的な要素もあったということですね。
福田: そう思います。オフトは日本人が韓国をどういうふうに思っているかということも重々わかっていたと思うんですね。韓国へのコンプレックス、恐れを取り払ってくれた。それはすごく大きかったですね。

二宮: オフトジャパンでは、ラモス瑠偉とオフトが意見の食い違いからバチバチとぶつかり合っていたのが印象に残っています。
福田: 最初は大変でしたよ(笑)。ラモスさんを筆頭にヴェルディ対オフトみたいな構図です。ヴェルディの選手たちは狭い中央のエリアを崩していくサッカーを代表でも志向していたんですが、オフトはそうなったらすぐに練習を止めて「もっと広いスペースを使え」と注意する。サッカー観の違いで相当ぶつかり合っていましたね。アイコンタクト、トライアングル、コンパクトフィールド、3ラインもヴェルディの選手は「そんなのはユースの話じゃないか」という感じで、なかなか受け入れなかった。でも、オフトからすれば日本はまだ基礎ができていないと。

二宮: 和解のきっかけは、反発していたラモスにキャプテンの柱谷哲二が「1回、オフトの言うこと聞け」と説得したことだったそうですね。
福田: 僕も後から聞きました。哲さんがうまく間に入ったんですね。ただ、今になってオフトは反発する選手のエネルギーをチームづくりに利用していたんじゃないかとも思うんです。そのエネルギーをプラスに変えようと。引退後にオフトから「反発する選手にアプローチを続けて、もしダメなら切ればいい。代表ではそれができる」という話を聞きました。

二宮: オフトと言えば、当時無名だった森保一を代表につれてきたこと。人を見る目も確かでしたね。
福田: あれには僕も驚きました。恥ずかしながら、僕もまったく彼の存在を知らなかった。名前もなんて呼んでいいかわからないくらいでした(笑)。

二宮: そんな森保が、ボランチとしてオフトジャパンでは欠かせない選手になりました。
福田: おそらく、日本サッカー界にボランチというポジションの重要性を知らしめたのはオフトでしょうね。ことあるごとに、「ボランチの選手が重要なんだ」と言っていましたから。森保はその象徴だと思いますね。

 ハードすぎた1993年

二宮: 残念ながら、オフトジャパンは“ドーハの悲劇”で幕が引かれます。米国W杯アジア最終予選で日本は、勝てば出場権獲得という状況でイラク戦を迎えました。
福田: 北朝鮮、韓国に連勝して勢いが出てきていたので、「これは行けるかな」という雰囲気はありましたね。ただ、イラクはすごく強かった。実はオフトが一番、最終予選前にマークしていたのがイラクなんです。「危険なチームだ。だけど、我々は最後に戦う。情報が入ってくるから、まだラッキーだ」と。実際、イラクはモチベーションが非常に高くて、選手もすごくうまかった……。試合が始まる前までは、空はまだ明るくて、観客もそんなにいなかった。しかし、スタジアムの雰囲気も徐々に騒然としてきて、いつの間にか完全アウェーの状態になっていた。最後はもう日本のサポーターの声も全然聞こえない。先制した後、同点に追いつかれた時には「もう絶対にダメだ」という雰囲気になりましたね。それぐらいイラクに圧倒されていたんですよ。

二宮: 1−1の状況で福田さんは途中出場しました。ピッチの空気は?
福田: もう混乱していました。かなり押し込まれて決定的なシーンを何度もつくられ、いつやられてもおかしくないような状況でしたからね。

二宮: そのなかでゴン中山(雅史)のゴールで2−1と勝ち越した。それでも、選手たちは不安を感じていた?
福田: 不安というか、とにかく余裕がなかったですね。「W杯に行ける。だけど、イラクは強い」という何がなんだかわからない状況。それは、今までW杯に王手をかけた経験がなかったからでしょうね。選手、監督、日本サッカー協会、サポーターもそうです。あの場にいた日本人全員が全体的に浮足立っていたように感じました。

二宮: ロスタイムのショートコーナーの場面、福田さんはどの位置に?
福田: ゴール前にいました。あのシーンで、僕らの足は止まっていました。イラクは直接CKをゴール前に入れてくると思っていたんです。それがショートコーナーで変化をつけてきた。虚をつかれて、みんなボールウォッチャーになって、パッとやられてしまった……。ただただ、スローモーションでボールがゴールに吸い込まれていくのを見つめていました。

二宮: オフトがピッチにうずくまるラモスの手を取り、慰めるシーンが印象に残っています。
福田: その後のことはほとんど覚えていません。試合が終わった後のことも覚えてないし、ホテルに帰って何をしたかも記憶にない。覚えているのは帰りの飛行機のなかで、オフトに「最終予選はすごく調子が悪かったが、どうしたんだ?」と話しかけられたことぐらい。僕は何も答えられませんでした。

二宮: ショックが大きすぎるとそうなるんでしょうね。
福田: 間違いないですね。初めてプレッシャーに押し潰されました。 93年、3次予選と最終予選の間に Jリーグがスタートした。僕らは、「Jリーグを成功させたい」という思いがすごく強かったんです。特に代表選手は「そのためにはW杯に出ることだ」という使命感を持っていました。リーグ戦も一生懸命、代表も一生懸命。それだけに、並々ならぬプレッシャーをみんなが感じていたんだと思います。一昨年、オフトが来日した時にドーハのメンバーで集まったんです。その時にオフトは「93年のスケジュールはキミたちにとってあまりにもハードすぎた」と言っていました。

二宮: 当時のJリーグは週に2試合を行い、さらに延長戦、 PK戦と必ず勝負をつけていました。
福田: 「もうドーハの時には疲れ果てていた。だから、その前にスペインへ合宿に行っただろう? あれはキミたちを休ませたいから行ったんだ」と明かしてくれました。もう人がまったくいないアンダルシア地方のリゾート地に行ったんですよ。

二宮: 心身ともに疲れが残っていたと?
福田: はい。また浦和はチーム状況が悪かった。僕としては代表で一定以上のクオリティのプレーができるけど、クラブでは疲労もあってパフォーマンスが低下し、結果も出ないから自信を失う。そういう状況のなかでの“93年”でした。良くも悪くも忘れられない1年ではありますね。

(後編につづく)

<福田正博(ふくだ・まさひろ)プロフィール>
1966年12月27日、神奈川県生まれ。中央大―三菱重工/浦和。89年、三菱入りし、同年のJSL2部リーグで得点王となる活躍で1部昇格に貢献。95年には50試合32ゴールを挙げ、日本人初の得点王に輝く。02年の引退まで浦和一筋でプレーし、“ミスターレッズ”として多くのファン、サポーターに愛されている。日本代表には90年から選ばれ、主力として92年アジアカップ初優勝。93年にはW杯米国大会予選の“ドーハの悲劇”を経験した。現役引退後はJFAアンバサダーに就任し、全国各地で幅広いサッカーの普及活動をサポート。06年、JFA公認S級ライセンスを取得。08年から3シーズン、浦和のコーチを務めた。現在はサッカー解説者としてメディアで活動している。J1通算216試合、91得点。J2通算12試合、2得点。国際Aマッチ通算45試合、9得点。

★今回の対談で楽しんだお酒★[/color]

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<対談協力>
やきとんに焼酎 路地
〜新宿路地裏にひっそりたたずむ一軒家〜
 広大な敷地、美しい湧水のもとで生まれ育った、岩手県花巻産「白金豚」。甘みのある脂とコクのある味わいの、この極上の豚を、備長炭で焼き上げた元祖高級やきとん屋。そのやきとんとともに、お気に入りが必ず見つかる「本格焼酎」を100種類以上取り揃え。こだわりの食材をシンプルに仕上げた自慢の料理をぜひともご堪能ください。

東京都新宿区新宿3-17-17
TEL:03-3352-0080
営業時間:
月〜金 17:00〜24:00
土   16:00〜24:00  
日祝  16:00〜23:00
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◎クイズ◎
 今回、福田正博さんと楽しんだお酒の名前は?

 お酒は20歳になってから。
 お酒は楽しく適量を。
 飲酒運転は絶対にやめましょう。
 妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。

(構成:鈴木友多)
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