1927年(昭和2年)に始まった都市対抗野球は、プロ野球よりも古い歴史を誇る。
 都市対抗野球の特徴は補強選手制度だ。出場チームは予選敗退チームから最大で3名までを加えることができる。これによって「地区代表」としてのお墨付きを得るわけである。

 ホンダの西郷泰之は三菱自動車川崎・三菱ふそう川崎時代から補強選手も含めて18回、都市対抗野球に出場している。
 優勝は川崎市で4回(三菱ふそう3回、東芝1回)、藤沢市(いすゞ自動車)で1回、狭山市(ホンダ)で1回。“ミスター社会人野球”と呼ばれる所以である。

 ここまで積み上げたホームランは14本。これは引退した杉山孝一(新日鐵名古屋)と並んでトップタイ。つまり、あと1本打てば、単独トップに躍り出るのだ。早ければ、新記録は今夏にも達成される見通し。

 社会人野球は企業チームが主体である。最大で237もあった会社登録チームが、不況やコスト削減を理由に、89(1月31日現在)にまで減った。
 西郷も2008年、三菱ふそうの活動休止に伴い、一時は引退を覚悟した。休止と言えば聞こえはいいが、要するに廃部である。

<燃えろ! 西郷 エンジン機械課>。スタンドに横断幕が掲げられるなど、彼は同僚たちに愛されていた。野球選手は職場の華だった。

 しかし、リストラの嵐はスポーツの現場にも吹き荒れた。この時、西郷36歳。監督に「どこかから声がかかったら、話だけは聞かせてほしい」と頼んではみたが、「声がかからなかったら、もうしょうがない」という諦めにも似た思いも、心のどこかにはあった。

 捨てる神あれば、拾う神あり――。しばらくしてホンダの安藤強監督(当時)から声がかかった。

「都市対抗のホームラン記録をうちのチームで塗り替えてくれ」

 西郷に異存はなかった。09年には3回戦で最多記録にあと1本と迫る2ランを放つなど、主砲としてチームを13年ぶり2度目の都市対抗野球優勝に導いた。
 ホームラン記録を樹立しての、ホンダでの自身2度目の優勝――。それが目下の西郷の目標である。

「今はクビになるまでやりたいという気持ちの方が強い。狭山市の人々には“新記録のホームランを打ったら、ホテルを貸し切ってパーティーをやろう”と言われています。
 チームとしては、都市対抗と日本選手権での優勝を目標にやっていますが、個人的には地域と一体となって盛り上がれる都市対抗で最高の成績を収められる方が嬉しいですね」

 そして、続けた。
「小学5年の息子がいるのですが、よく試合を見に来てくれるんです。父親として、もっとカッコいいところを見せたいという思いもある。ここまで僕をささえてくれたのは家族ですから……」

 東京の日本学園高ではピッチャーだった。三菱自動車入社後もピッチャーを志望したが、本人によれば「1年も経たないうちにクビ」になった。

 キャリアのハイライトは1996年のアトランタ五輪だ。西郷は2番打者として銀メダル獲得に貢献した。
 このチームには、その後、プロで活躍する井口忠仁(千葉ロッテ、現在は資仁)、松中信彦(福岡ソフトバンク)、谷佳知(巨人)、福留孝介(阪神)らがいた。

 もちろん西郷も若い頃はプロ志望だった。
「24歳くらいまでは(プロに)行きたかったんですが、25、26歳になって諦めましたね。当時、“社会人野球出身のバッターはプロでは通用しない”と言われ、自分で勝手に諦めた部分もありました」

 社会人野球出身のスラッガーがプロで伸び悩む最大の理由――それは金属バットの弊害だった。
 01年まで、社会人野球は金属バットを使用しており、プロ入りして木製バットになった途端、快音を失うスラッガーが相次いだ。同じバットでも金属と木製は似て非なるものだった。

 バットの変更は社会人野球に変革をもたらした。
 西郷は語る。
「金属バットの時代は25対19とか23対21といったラグビーのスコアのような試合もありました。1回表に5点取ったと思ったら、その裏に12点取られたり(笑)。9回で5点のリードがあっても、まだ安心できませんでした。
 それが木製バットになってから野球の質も一変した。必然的にバッティングも変わっていきました」

 ――具体的に、どう変わったのか?
「金属はバチンとバットを当てるだけで飛んでいくんです。しかし木製はボールを運ばなければいけない。ボールをグッと押し込み、スピンをかけて運ぶ。随分、その練習をしました」

 ちなみに14本のホームランの内訳は金属が5本、木製が9本。この数字が、はっきりと進化の跡を物語っている。
 00年からは打順も3番から4番に替わった。必然的にヒットからホームランが求められるようになった。

「当時の垣野多鶴監督から“遠くへ飛ばす練習をしろ”と言われたんです。それまではチャンスメークが僕の大きな仕事で“レフト前ヒットでもいいや”と思っていた。
 以前から芯に当てることには自信があったのですが、それじゃダメだというので、左方向ならレフトオーバーへの打球を意識するようになった。下半身の力をボールに伝え、最後まで振り切る。ボールを押し込むことで詰まった打球でも遠くへ飛ばせるようになったんです」

 不惑を過ぎてなお、さらなる高みへ。彼こそは勤め人の鑑である。

<この原稿は2013年6月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

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