野球王国・四国――。残念ながら、今では、もう死語なのだろうか。
 夏の甲子園、四国の4校が全て初戦で姿を消した。鳴門(徳島)2対8九州国際大付(福岡)、今治西(愛媛)0対6早稲田実(西東京)、明徳義塾(高知)3対4敦賀気比(福井)、寒川(香川)4対10健大高崎(群馬)。惜しかったのは明徳くらいで、他の試合は完敗だった。四国勢の初戦敗退は1988年以来のことで、平成になってからは初めてである。

 高校野球100周年。かつては松山商(愛媛)、高松商(香川)、徳島商、高知商に代表される商業高が四国の高校野球をリードしてきた。これら伝統校は甲子園でも試合巧者ぶりを発揮し、春夏合わせて松山商7回、高松商4回、徳島商、高知商は1回ずつ頂点に立っている。

 全国にその名をとどろかせたのは商業高だけではない。徳島・池田のパワフルなバッティングは高校野球を変えた。全国優勝こそないものの、準優勝2回の土佐(高知)は全力疾走で全国の高校の模範となった。

 野球殿堂入りを果たした四国出身者も少なくない。<特別表彰>正岡子規、佐伯勇、千葉茂、森茂雄、景浦将、大社義規、伊丹安広、太田茂、宮武三郎。<競技者表彰>藤田元司、坪内道則、白石勝巳、藤本定義、中西太、筒井修、牧野茂、三原脩、水原茂、上田利治。話題を呼んだ映画「KANO」の題材となった台湾・嘉儀農林を日本統治下の31年、準優勝に導いた近藤兵太郎監督も松山商の出身である。

 甲子園の決勝が四国対決となったことも3回ある。25年春は松山商対高松商、50年夏は松山東(当時は松山商と統合)対鳴門、53年夏は松山商対土佐、いずれも松山に軍配が上がった。

 四国勢の躍進は甲子園のスタンドをも活気づけた。徳島商や鳴門、池田が活躍すると、応援席は阿波踊りの会場に早変わりした。高知商が勝ち進むと大漁旗が舞った。

 高度成長期、四国は京阪神地方に多くの労働力を供給した。方言が飛び交う甲子園のスタンドは故郷を身近に感じられる、いわば県人会のような場でもあった。

 かつて、四国のチームは船で甲子園に乗り込んだ。出発の際には港で出陣式を行った。橋ができてから、そんな光景とも出くわさなくなった。そうだ、橋が四国を弱くしたのだと、八つ当たりの夏である。

<この原稿は15年8月12日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
◎バックナンバーはこちらから