競輪界最高峰のレース「KEIRINグランプリ(GP)2015」が28日から3日間、東京・京王閣競輪場で開催される。日本屈指の競輪選手たちが集まる大一番に6年連続9度目の出場を決めたのが村上義弘である。競技歴21年目、GPの常連となっているベテラン。今年G1未勝利の村上の出場は危うかったものの、11月の朝日新聞社杯競輪祭(G1)で意地の走りをみせて、残りの出場権1枠を手に入れた。最後の最後で滑り込んだ村上が、3年前にGPで優勝した時のような粘り強い走りで、年末の総決算を制するのか――。村上のGP初制覇を描いた2年前の原稿で、彼の魂の走りを振り返りたい。

 

<この原稿は2013年11月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 

 3月の日本選手権競輪(ダービー)を制し、今年の9月末までの獲得賞金額はトップの1億573万200円。GIレース優勝者や獲得賞金上位の9名で争う暮れのKEIRINクランプ理出場権を手に入れた。

 

 グランプリは優勝賞金1億円。競輪界で最も賞金の高いレースだ。気の早い話だが、昨年の覇者・村上義弘が連覇を果たせば、2002年、03年の山田裕仁以来、史上2人目となる。

 

 昨年は冷たい雨の中のレースだった。東京・京王閣競輪場。近畿勢の出走は、彼ひとり。直前の肋骨骨折などもあって村上を1着に支持する2車単のオッズは最高でも26番人気だった。

 

 ケガはどんな状態だったのか。

「レースの2週間前のことです。グランプリ用の新しい自転車のフレームが来たので、それでセッティングして練習していたんです。ところが、ちょうどバンクでダッシュの練習をしていた時、チェーンが切れて投げ出されてしまった。肋骨あたりがボリボリッと音がしたので、“これは折れたな”とすぐに分かりました。

 

 以前にも骨折の経験があるのですが、肋骨は対処のしようがない。もう何をやっても痛いんです。こちらとしては我慢して、とにかく体力を落とさないようなトレーニングをするだけでした」

 

 想定外のケガをしたことで、村上は、作戦を絞らざるを得なくなった。

「自分が行けるタイミングを見計らって思い切り踏み込むだけ。レースには、一瞬、必ずどこかにスキが出る。そこに勝負を賭けるしかないと……」

 

 そのための準備は怠りなかった。サドルの位置を通常より4センチほど前に出した。重心を前に置き、後ろにペダルを蹴り込むような仕様に変えたのだ。ハンドルとサドルとの距離を縮めることで体の負担を減らす狙いもあった。

 

 激しい雨の中、最終2コーナーで3番手からまくった。内に降りた福島の成田和也が物凄い形相で追い上げてきた。三重の浅井康太も接戦にからんだ。

 

「感覚的には残ったと思ったんですが、(成田と同着になり、決勝進出できなかった)直前の競輪祭のことも頭をよぎりました。ひょっとしたらタイヤ差で抜かれてしまったかも、と……」

 

 勝ったのは村上だった。その差、約2センチ。2825メートル走って、わずか2センチである。

「ヤバイと思って、ゴール寸前、ちょっと早めにハンドルを放ったんです。パーンとゴールに向かって自転車を押し出した。普通の人がやっても、それだけで20~30センチは前に出られます。その気持ちがタイヤ差の粘りにつながったのだと思います」

 

 優勝すれば1億円、2着は2000万円。その差は8000万円。「2位じゃダメなんですか?」と言った政治家がいたが、少なくとも、この世界において2位は敗北を意味する。

 

 振り返って村上は語る。

「あのレースは、いわゆるゾーンに入ったんでしょうね。後になって、周りから“すごい雨やったな”と言われたんですが、レース中は全く気にならなかった。思い出すのは前の自転車のしぶきを受けたかな……というくらい。それだけ集中していたんでしょうね」

 

 村上には5つ違いの弟が要る。弟・博幸も2010年にグランプリを勝っており、史上初の兄弟でのグランプリ制覇となった。

 

 大金が稼げる、体ひとつで勝負できる――。競輪の世界に飛び込んでくる若者の多くが、そうした理由を口にする中、京都市生まれの村上は父親の影響で、早くから打鐘の聞こえる空間に身を置いて育った。

 

「父が大の競輪ファンやったものですから、子供の頃から向日町やびわこの競輪場に連れていかれました。普通、小学生に“イン切り”と言われてもわからないものでしょうが、早くから父は丁寧に競輪のことを解説してくれた。

 好きやったのは先行選手。特に滝澤正光さんが好きやった。もちろん将来の夢は競輪選手で小学5年か6年の文集には、はっきりとそう書いていました。

 ヘルメットのぶつかる音、ゴール前で踏み込んだ時に生じるザッッザッというタイヤの音、選手たちの独特の息づかい……もう全てが好きやった。“これぞ、男のスポーツや”と」

 

 高校は自転車競技の名門に入った。京都・花園高では国体(1キロタイムトライアル)で優勝した。

 

 3年の時、運命的な出会いを果たす。同じ京都出身で“マーク屋”として一世を風靡した松本整と一緒に練習する機会に恵まれたのだ。

「当時の松本さんは33歳。失礼ですが、僕からしたらオッさんですよ。そのオッさんにタイムトライアルで遊ばれてしまった。もうバイクみたいに加速していく。その時、初めてアマチュアとプロのレベルの違いを実感しました」

 

 競輪は同郷や同地区の選手とラインを組んでレースを走る。近畿ラインのボスと目されていた松本は自分に対しても、後輩に対しても厳しかった。

「プロである以上、ファンの期待に応えるのは1着を取ることだ。1着を取りにいかないのは失礼だ」

 

 松本はGI最年長優勝記録(45歳0カ月)を達成するなど、40代になってからは“中年の星”と称えられた。高松宮記念杯を制した直後の45歳での引退は劇的だった。涙にくれる村上の姿が印象に残っている。

 

 かつては「先行日本一」として鳴らした村上も、もう39歳。衰えを感じることはあるのか。

「だんだん厳しくなっているのは事実です。時にはとてつもない疲労感に襲われることもある。レースのスピードがものすごく速く感じられたり、以前は見えていたものが見えなかったり、相手の動きが分からない時がある。反応が落ちてきているので、これまで以上のトレーニングでカバーしなければならないと思っています」

 

 小さい頃から競輪の世界に憧れ、頂点まで極めた男は、今も身を置くバンクの魅力を、こう語る。

「ここは僕にとって戦いの場所。あのピリピリした雰囲気が大好きなんです」

 

 打鐘の響きは、魂の咆哮である。


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