2015年11月15日――。両国国技館の興行を最後にプロレスラー・天龍源一郎がリングを降りる。力士として前頭筆頭まで昇りつめたが、部屋の騒動に巻き込まれ、自らマット界へと転向したことは周知のとおりである。76年に全日本プロレスでデビューした天龍だったが、90年に退団。同年設立のSWSへ電撃移籍した。翌年8月9日、横浜アリーナのSWS1周年記念興行では、全日本時代にタッグを組んでいた阿修羅・原との“龍原砲”を再結成。2年9カ月ぶりの名コンビ復活は天龍革命の第一歩だった。まだまだ天龍の姿を見ていたい。思い出にふけりながら、当時の原稿をもう一度読み返そう。

 

<この原稿は1991年9月号の『Number』に掲載されたものです>

 

 天龍源一郎と阿修羅・原の“龍原砲”にとって、この日の試合は2年9カ月ぶりのコンビ復活戦だった。阿修羅・原が突如として失跡したのが88年の冬、その間北海度の知人の世話になっていたということ以外、彼がどんな生活をしていたのかさえ審らかになっていない。深くは詮索しないが、人前に姿を現せぬ止むに止まれぬ事情があったのだろう。

 

「プロレスは全く見ていない。風のウワサでSWSを旗揚げした源ちゃん(天龍)が悪戦苦闘していたのは知っていたけど、オレ自身プロレスに戻れるような状況ではなかった。だから……」

 

 リージョン・オブ・ドゥームに完敗を喫した直後の控室。阿修羅・原はそう言ったきり口をつぐんだ。

 

 2人が再開を果たしたのは、『紀元一年』と銘打たれた1周年記念興行に後1カ月と迫った7月4日だった。天龍が「ねえ、阿修羅、このまま埋もれるわけにはいかないよね?」と水を向けたところ、数日して出場を了解する電話があり、急遽、SWS入団の運びになったのだという。

 

 そのあたりのいきさつを、「週刊ゴング」誌の対談で両者は次のように語っている。

 

「“矢面に立ってでも、1周年記念の横浜には出る”と決意を語ってくれた時には、一時は忘れていた浪花節みたいなものを阿修羅によって思い出させてもらった気がしたよね。闘争心に火をつけられたと思ってるよ。なかなか連絡がつかなかったし、阿修羅自身、踏ん切りもつかなかっただろうけど、出てきてくれたことに今は感謝しているよ」(天龍)

 

「源ちゃんが今、言ったけど浪花節……全日時代に組んだ時から“この男なら!”と思って、競い合いたい、そして最後は介錯してもらいたいというのが俺の考えだったから。本当はSWSが旗揚げした時だって、飛んで行きたかったのさ。自分の持っているスタイル、表現しようとしているものは、他の場所では出せないとずっと思ってた。だから俺は自分の抱えた問題は自分の力でクリアして、その段階で“源ちゃん、頼む”って言って、それで“阿修羅、ごめん”って言われたら、その時はスッパリあきらめるつもりだったよ」(原)

 

 平成の世には、まるで似つかわしくないド硬派色に染められた会話である。長ドズを手にした高倉健が天龍なら、さしずめ橋の袂で暗闇から現れる池部良が原といったところか。アナクロの匂いもここに極まれり、である。しかし、この感覚が妙に古くて新しい。

 

 全日本プロレス時代の「レボリューション」のテーマミュージックに乗って2人が登場すると、横浜アリーナは割れんばかりの声援に包まれた。中には涙ぐんでいる若者までいる。いったい、どうしちゃったのだろうと少々戸惑う。会場の雰囲気が妙にウエットなのだ。

 

 初戦でケンドー・ナガサキ、仲野信市組を撃破した龍原砲は、準決勝で谷津嘉章、キング・ハクの“ナチュラル・パワーズ”と相対した。120キログラムを超すヘビー級の4人のレスラーが胸をくっつけんばかりにしてにらみ合うと、それだけで緊迫感がみなぎる。有無を言わせぬ迫力である。

 

 天龍が谷津をパワーボムにとらえる。ドシーン! ハクがコーナーポストから天龍にボディプレスを見舞う。ズッドーン! ハクへの原のヘッドバット。ゴツン! ハクへの天龍チョップ。バシッ! バシッ! バシッ!

 

 スピードこそないが、技の一つ一つに重みとコクが感じられる。サーカスもどきのハイスパート・レスリング花ざかりのご時世だけに、あたかも60年代のプロレスを観ているような錯覚にとらわれる。この感覚が新鮮に思えるから不思議だ。

 

 少々マニアックな話になるが、プロレスが軽くなり始めたのは、ドリー・ファンク・ジュニアがNWA王座を奪取したあたりからではないだろうか。それまでのプロレスは、たとえばフリッツ・フォン・エリックならアイアン・クロー、ボボ・ブラジルならココバット、ブルーノ・サンマルチノならベアハッグ……といった具合に、“一人一芸”を基本としており、必殺技を3つも4つも携えているようなレスラーはいなかった。ドリーに王座を奪われたジン・キニスキーも必殺技はバックドロップとキチン・シンクくらいのもので、とても器用なレスラーとは言えなかったように思う。

 

 ところが、ドリーがNWAのベルトを手にした頃から、米マット界も様変わりし、ハリー・レイス、ジャック・ブリスコ、テリー・ファンク……とパワーよりもテクニックを売り物にするレスラーが幅をきかせ始める。こうしたスタイルに関節技などを加えることによって、より見映えをよくしたものがいわゆるジャパニーズ・スタイルで、大まかに言ってこれが今の日本マット界のトレンドとなっている。全日本プロレスも新日本プロレスも数年来、このスタイルを採用している。

 

 翻ってSWSだが、設立から1年が経過して、やっと天龍の目指す方向性が見えてきた。それはテクニックよりもパワーが上位にくる60年代プロレスへの回帰である。そこには衣装じみた技は出来る限り排除しようとの強い意志がうかがえる。運営面で道場制を導入して、崩れつつあるプロレスのリアリズムの再構築を図らんとする天龍は「強い、すごい、こわい」のプロレス3原則に沿ってソフト面の改革にも乗り出したのである。それが復古調に染められている点に天龍の理想郷を垣間見ることもできる。

 

 SWS旗揚げ直後、天龍はこんなことを言っていた。

「これからは不器用でもいいから、存在感のあるレスラーを育てたい。ドロップキックが得意ならそればっかりでもいいんだ。あれもできる、これもできるというレスラーはプロとしては魅力ない。だから短所を直すよりも長所をのばしていきたいと思っている。何かひとつでもいいから人に負けないものがあればそれでいいんだ」

 

 ロープが波打ち、リングがきしむ。龍源砲とナチュラル・パワーズの攻防は、さながらむき出しになった肉塊の正面衝突を思わせた。力一杯攻める→耐える→反撃する→耐える→その繰り返しである。インサイドワークがかけらも見られない点が心地よい。そこに展開されているのはただただ、“理屈抜きのプロレス”である。

 

 激しい闘いを目のあたりにして、ふと気づく。前頭筆頭まで上がったにもかかわらず、自らの意思でマゲを切り、全日プロの将来の幹部とまでいわれながら、あえて激流に身を投じた天龍。元ラグビー世界最強メンバーという輝かしいキャリアを捨てて倒産寸前の国際プロレスに飛び込み、この後2度にわたって失踪事件を引き起こした原。モントリオール五輪代表であり、日本のレスリング重量級史上最強とうたわれながら、プロに入ってからは団体に恵まれず、SWSが4団体目となる谷津。そして朝日山部屋のお家騒動に巻き込まれ、わずか4年で廃業を余儀なくされた元福ノ島のキング・ハク――。皆、ドロップアウターなのである。流れ流れてSWSという“人工の島”にたどりついたのだ。力道山の時代ならいざ知らず、これもかなりのアナクロニズムである。

 

 北尾が暴言事件の責任を問われ、SWSを解雇された時、天龍は眉間に深いシワを寄せてこう語ったものである。

「皆、いろんな会社や団体でいやな思いをして、この団体にやってきたんだ。だからこそ意地を示して欲しかった」

 

 2年9カ月ぶりに復活した龍源原はナチュラル・パワーズにはかろうじて勝ったものの決勝ではリージョン・オブ・ドゥームの圧倒的なパワーに完膚なきまでに粉砕され、完全復活をとげることはできなかった。会場に重い空気が流れる中、天龍が沈黙を破った。

 

「皆、聞いてくれ! 龍原砲は死なんぞ!」

 

 彼らが生き続ける限り、古き良き時代のプロレスは死なない。一時の雌伏を経て、アナクロニズムの逆襲が始まる。


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