「(ランの先頭で飛び出した世界選手権シリーズ)横浜大会がそうだったように細田には思い切りの良さがある。少々のことには動じないタフさ、ワイルドさ。これは従来の日本人選手にはない強みです」
 細田を指導する稲毛インターナショナルトライスロンクラブの山根英紀コーチはこう評する。山根は日本男子トライアスロン界の草分け的存在で、指導者になってからは庭田清美、福井英郎、中西真知子ら多くのトライアスリートを育てた。女子でロンドン五輪代表に内定した上田藍も彼が指導を行っている。
「2度とやらない」から始まった競技生活

 山根が明かす細田の持ち味は、どのようにしてつくられたのか。そのヒントは彼の波乱万丈とも言える半生にあった。
 細田の出身地は徳島県東部に位置する池田町(現・三好市)。かつて“やまびこ打線”で甲子園を沸かせた池田高校がある町だ。恵まれた自然の中で生まれた細田だったが、幼少期はアトピー性皮膚炎で苦しんだ。小さい頃から病気に耐えた経験は我慢強い性格をかたちづくる。母の楽(たのし)は当時を振り返って、こう語る。
「病院ではこんなひどい子はいないと言われたこともありました。小さい頃から大変な思いをしてきたので、治ったら好きなことをさせようと思っていたんです」

 家族による懸命な体質改善が身を結び、小学校の低学年になるとだいぶ細田の症状は収まっていった。元気を取り戻した少年が熱中したのはサッカーだ。父の義秋がサッカーをやっていたこともあり、休みには親子でボールを蹴った。そんな折、プロサッカーリーグのJリーグが開幕。野球で有名だった町にもサッカーブームが到来する。カズ(三浦知良)、ラモス瑠偉、ジーコ、アルシンド、ビスマルク……。細田もテレビ中継されるヒーローたちのプレーのとりこになった。
「Jリーガーになりたい!」
 七夕の短冊にも、そう願い事を記すほど真剣にサッカー選手を夢見ていた。

 好きこそものの上手なれ。キャプテン翼の主人公・大空翼よろしくMFのポジションで細田は頭角を現す。小学5年になると地域の選抜チームにも選ばれた。その大事な練習当日、“事件”は起こった。
「同じ日に家族旅行も兼ねて“トライアスロンの大会に出る”って勝手にエントリーされていたんです(苦笑)。車で連れて行かれて、オヤジの自転車を借りて出場しました」
 細田にとっての初トライアスロンは同じ四国の愛媛県大洲市で開催されたジュニア大会。しかし、サッカーの練習に参加できなかった上に、何も知らないままレースに引っ張り出されておもしろいはずがない。
「泳いでいたら川に流されるし、周りはみんなロードバイクでビュンビュン飛ばして走っていく。正直、キツいだけで全然楽しくなかったです」

 一流クラブで自然に磨かれた才能

 ただ、第一印象が悪い相手に惹かれるのは、人間同士でもよくあること。その後、「もう2度とやらない」と思った競技に、運命の糸でつながっていたかのように引き寄せられていく。何より2つ上の姉がトライアスロンの魅力にとりつかれていた。中学を卒業した姉は一大決心をし、本場オーストラリアに留学する。

「ビックリしました。確かに姉は大洲のジュニア大会でも優勝していましたが、そこまでトライアスロンに本気だとは知らなかったんです」 
 とはいえ、まだ親元を離れたことのない少女が単身で海外生活を送るには苦労が多すぎた。姉が渡豪して半年たった頃、母の楽もサポートのためオーストラリアに行くことになった。
「で、雄一はどうする? オーストラリア、行く?」
「え? どういうこと?」
 突然、南半球行きを切り出した楽に中学2年だった細田は困惑の表情を浮かべた。
「どうするって言われたって……」
   
 寝耳に水の提案だったが、思春期を迎えた細田は小さな町でエネルギーを持て余していた。それは得意のサッカーだけでは消費しきれず、夜な夜な家を抜け出し、友人たちと遊びに出かけることもしばしばだった。
「ここにいてもつまらないし、おもしろそうだから行ってみる」
 思い切りの良さで飛んだオーストラリア。その時、この地がトライアスリートとしての原点になるとは思いもよらなかった。

 オーストラリアでは姉と同じクリスチャン・スクールに通った。日本人学校ではないため、当然ながらクラスで交わされるのは英語のみ。最初は先生やクラスメイトが何を言っているのかさっぱり理解できなかった。だが、全く日本語のない環境で数カ月も学んでいると、自然と英語でコミュニケーションがとれるようになってくる。この経験も少々のことではめげないタフな性格に磨きをかけた。

 学校が終わると姉とともにトライアスロンの練習に顔を出した。何の気なしに通っていた現地のクラブだったが、実はここが競技に取り組むには最高の環境だった。なんとオーストラリアのトップコーチであるコル・スチュアートが指導していたのだ。
「雑誌やテレビで観るようなトライアスロンのエリート集団の中に入って練習していました。だから練習後はくたびれてしまって、ベッドで死んだんじゃないかと思うくらい眠っていましたよ(笑)」
 そう当時の様子を話す楽と姉が日本に戻った後も、ひとり細田はオーストラリアに残った。
「“18歳までは自由にしてていいよ”と親からも言われたので、学校も辞めて2年半、遊び倒しましたね(笑)。その頃は円高だったし、オーストラリアは物価が安いので、1カ月5万円の仕送りでも充分、生活できました」

 青い空、青い海、白い砂浜……オーストラリアの自然の中で日本の受験戦争とは無縁の10代を細田は過ごした。ただひとつ、トライアスロンとの縁は切れそうで切れていなかった。
「バイクがおもしろかったんで、トライアスロンのクラブにはちょこちょこ出かけていました。そしたら、ついでにスイムもやるようになって……。トップ選手と一緒のメニューで6000mを泳いだりしていましたね。最初は決められた距離を制限時間内で泳ぎきれなくて休む暇がなかったです(笑)」
 まだトライアスリートになる気はさらさらなかった。半分は遊びながらの練習。しかし、世界最高峰のトレーニングをこなしてレベルアップしないわけがない。

 天然系の問題児

 いよいよ18歳になる夏、細田は帰国し、日本ジュニア選手権に出場する。すると、オーストラリアで鍛えられた能力を見せつけ、いきなり入賞。ジュニアの代表に選出される。初めて日の丸を背負ったアジア選手権では優勝を収めた。
「オーストラリアのトップクラスの環境が勝手に自分を強くしてくれていた。ようやくトライアスロンに取り組んでみようという気持ちが芽生えてきましたね」

 帰国後はカバン1個でトライアスロンを通じて知り合った先輩や友人たちの家に押しかけ、東京近辺を転々として過ごした。泊まるところがなければ公園や駅で野宿した。生活費はバイトで稼いだ。オーストラリアで4年間、たくましく生きてきただけに少々のことは平気だった。
「ジュニアの代表に選ばれると、海外遠征もある。それが純粋に楽しかったんです」

 山根コーチと出会ったのは、この頃だ。
「住むところないならウチのクラブには寮があるよ。住む?」 
 ある大会の打ち上げの席、山根の提案に細田は飛びついた。
「当時は次はどこに泊めてもらおうかってことばかり考えていました。屋根さえあればいいので、そろそろ自分の住むところを決めたいなと思っていたんです」
 もちろん寮で住むにはクラブに入会する必要がある。山根は入会にあたり、トライアスリートとしてしっかりトレーニングをすること、ゆくゆくは五輪を目指す選手になるよう話をした。

 ところが……。
「朝寝坊はするし、時間にルーズだし、練習もサボりがち。活きの良さだけが取り柄の若造でした」
 山根が振り返って苦笑するほど、細田は天然系の“問題児”だった。良くも悪くも楽しみながら競技を続けてきた細田にとって、管理されるトレーニングは初体験。適応できないのも致し方なかった。
「まだ目立つ選手ではなかったですけど、努力さえしてくれればものすごく伸びると見ていました。でも、こればかりは本人が自覚してくれないとどうしようもない。粘り強く見守っていましたね」

 師匠の思いに教え子は気づかなかった。親の心、子知らずとはよく言ったものだ。大した練習をしなくても、本場で培った力は日本国内なら通用した。03年に日本選手権で5位に入ると、05年のジャパンカップランキングでは1位。ホープの出現に細田の下には支援を名乗り出る企業も現われた。
「これなら山根さんのところでやらなくてもやっていけると勘違いしちゃったんです。完全に天狗になっていました」
 その冬、細田は所属先を変更し、拠点を大阪に移す。これでまた自由にトライアスロンができる――その選択が廻り道になることを21歳になったばかりの若者はわからなかった。

(第3回へつづく)
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細田雄一(ほそだ・ゆういち)プロフィール>
1984年12月6日、徳島県生まれ。小学校5年時に姉の影響で大洲ジュニアトライアスロンで初めて大会に参加。池田中学2年時からオーストラリアに留学し、地元のトライアスロンクラブの練習に参加する。03年の帰国後、稲毛インターに入り、日本選手権で5位入賞。05年にはジャパンカップランキング1位に輝く。その後、所属先の変更やケガなどもあって伸び悩むが、10年にITUワールドカップ石垣島大会で国際レース初の表彰台(2位)を経験。アジア大会では金メダルを獲得する。11年は9月のITU世界選手権シリーズ横浜大会で日本人過去最高の10位。10月の日本選手権では初優勝を収め、ジャパンカップランキングでも1位を獲得した。ITU世界選手権シリーズの最新ランキングは37位。ロンドン五輪日本代表の最有力候補。身長175センチ、体重63キロ。
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(石田洋之)
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