二宮: 中西さんは高知県宿毛市の出身ですね。昔、カツオを食べに行っておいしかったのを覚えています。
中西: 愛媛との県境にある場所で、中学時代は愛媛の城辺や御荘(いずれも現愛南町)の中学校とよく試合をしていました。
(撮影:加藤潔)
 名門唯一の優勝投手

二宮: 高知商は高知市内にあります。宿毛からだとかなり遠いでしょう。
中西: まぁ、それでも同じ県内の高校ですからね。実家は酒屋で商売をしていたので、「野球だけじゃなく、簿記やそろばんくらい覚えてこい」と言われて送り出されました。

二宮: 当時は高知商、高知、土佐が甲子園行きを争っていた時代でしたね。
中西: 明徳(義塾)が野球部を創部したてで一番熱心に勧誘されました。同学年には河野(博文、元日本ハム)や横田(真之、元ロッテ)がいて強かった。高3夏の決勝で対戦して、最後は押し出し四球でサヨナラ勝ちしたんです。

二宮: 高知商といえば、思い出すのは1番から9番まで全員、右バッターだったこと。珍しいチーム編成でしたね。
中西: ええ。左はひとりもいませんでした。これは明徳の河野対策。サウスポーを打つために右を並べて打順を組んでいた。明徳を甲子園出場の最大のライバルとみてチームづくりをしていたんです。

二宮: 明徳を率いた松田昇さんは、その前は高知商の監督でしたね。
中西: 僕が入学する前の年までは監督をされていました。中学3年で野球部のセレクションを受けた時には、松田のオヤジに見てもらったんです。「オマエは高知商へ来い。オレは明徳に行くけどな」と言われました。松田さんにしてみれば、まだ明徳では甲子園に出る実力がないから、高知商で全国に行けという配慮だったのでしょう。

二宮: 甲子園には4度出場。なかでも3年(1980年)春には全国制覇を果たしました。帝京高の伊東昭光さん(現東京ヤクルト2軍監督)との投げ合いは記憶に残っています。
中西: 1−0の試合で延長までもつれこんだのに、1時間49分で試合が終わりました。投手戦というより、貧打戦だったかもしれません(笑)。

二宮: サヨナラ勝ちを収めた延長10回、1死三塁から浅いレフトフライでホームに突入した場面は微妙なタイミングでしたね。
中西: あの時はレフトの選手が肩を壊していたのを見抜いて、監督が突っ込む指示を出したんです。普通ならアウトだったでしょうね。

二宮: 高知商は、この2年前の夏にも決勝に進出し、PL学園に最終回に逆転サヨナラ負けを喫しました。PLは西田真二さん(現アイランドリーグ香川監督)、木戸克彦さん(元阪神)のバッテリーで、この時も中西さんは1年生ながらベンチ入りしていましたね。
中西: 2−0で勝っていて、最終回にひっくり返されました。1点差になったところで監督は1つ上の森(浩二)さん(元オリックス)を代えて僕をリリーフで使う考えだったみたいです。ところが、当時の部長が「ここまで来たなら森で行こう」と言って続投させた。高知商は甲子園決勝で勝ち切れず、準優勝3回。僕は名門の歴史上、唯一の優勝投手なんですよ(笑)。

二宮: 最近は明徳義塾が甲子園の常連になり、高知商の名前を全国の舞台で聞かなくなりました。OBとしては寂しいのでは?
中西: 今の明徳にはかなわないですよ。母校の県大会の結果を見ていると、僕らの頃には相手にもしなかったような学校に負けていますからね……。

 3イニング3連投の抑え

二宮: その後、社会人のリッカーを経て、84年に阪神にドラフト1位で入団しました。いろいろなピッチングコーチのアドバイスを受けたでしょうが、印象に残っている指導者は?
中西: 上田次朗さんにはお世話になりましたし、大石清さんにはフォームについて理論的に教えてもらいましたね。球持ちを良くするのが基本の考え方で、そのために、どういったメカニズムで投げればよいかを指導する。コーチになって大石さんの理論はよく参考にしていますね。

二宮: 2年目の85年には抑えとして大活躍し、日本一に貢献します。リーグ優勝を決めたヤクルト戦では胴上げ投手になりました。シーズン通じて63試合に登板して2ケタ勝利と2ケタセーブをあげています(11勝3敗19セーブ)。今では考えられない成績ですね。
中西: 当時は抑えといっても1イニング限定ではなく、2〜3イニング投げるのが普通でした。夏場の3連戦で3イニング3連投もあったんです。登板は勝っている展開だけじゃないので、味方が勝ち越したり、逆転しての勝ち星も増えていきました。

二宮: あの年はランディ・バースさん、掛布雅之さん、岡田彰布さんを中心とした強力打線が売りでした。ピッチャーとしては心強かったでしょう?
中西: ファンは見ていておもしろかったでしょうね。点がたくさん入って盛り上がる野球だったと思います。1−0や2−1のロースコアは少なくて、8−7といった点の取り合いでしたから。点を取っても取られて、先発ピッチャーが3回くらいで降板する。継投で何とか踏ん張るスタイルだったのでブルペンは大変でしたよ(苦笑)。

二宮: ただ、阪神が優勝した時を振り返ると、85年も、その後の03年、05年も強力なリリーフピッチャーがいたという共通項があります。05年のJFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)は、その典型です。
中西: 今の野球はウチに限らず、先発ピッチャーが完投して勝つのはなかなか難しい。岡田監督(当時)がJFKと3人しっかりしたリリーフを並べたのは当たりでしたね。先発は6回までゲームをつくってリードすれば、あとは継投で逃げ切れる。

二宮: 投手コーチとしては、もう一度、JFKのような強力なブルペンをつくりたいと?
中西: やっぱり先発のエース級を何人も揃えるよりも、リリーフで計算できるピッチャーを後ろからつくっていく方がゲームプランを立てやすい。抑えと8回、7回に投げるピッチャーを決める。そうすれば先発は5回まで投げて2、3失点であれば、勝負できますから。特にセ・リーグはピッチャーが打席に立つので、先発がいくらいいピッチングをしていても、ビハインドなら代打を出して代えざるを得ない。その意味でもブルペンの充実は不可欠ですね。

(第3回につづく)
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中西清起(なかにし・きよおき)プロフィール>
1962年4月26日、高知県宿毛市出身。高知商高時代は甲子園に4度出場。3年春はエースとして全国制覇を果たす。社会人のリッカーを経て、ドラフト1位で84年に阪神に入団。2年目の85年にはリーグ最多の63試合に登板し、11勝3敗19セーブの成績でリーグ制覇、日本一に貢献。最優秀救援投手のタイトルを獲得する。その後は先発に転向し、89年に10勝をあげると、90年には開幕投手に。96年限りで引退後は解説者を務め、04年から投手コーチとして古巣に復帰する。高校の後輩である藤川球児(現カブス)をはじめ、強力リリーフ陣の整備に尽力し、09年からは2軍を担当。13年から再び1軍コーチとなった。現役時代の通算成績は477試合、63勝74敗75セーブ、防御率4.21。



(構成:石田洋之)


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