アヤックスの機能美が破綻するとき。<前編>
フットボールはチェスに似ている。いや、チェスはフットボールに似ている、といった方が正しいかもしれない。
父親が子供にチェスを教える時、最初にいう言葉はいつも決まっている。
「あらゆる局面で数的優位をつくれ」
モダンチェスの現場において、いきなり敵陣深く攻め入り、クイーンやキングを追い詰めるという戦術は存在せず、地道に8個のポーンを収集にかかる。
この前線の二等兵をいかに攻め落とすかが前哨戦のカギであり、敵陣をカタストロフに陥れ、キングの首をはねるシナリオの断片をそこに見出すことは難しい。
勝者にとってフィニッシュは歓喜の一瞬ではない。それは夜のとばりが朝日ににじむ瞬間にも似て、敗者が静かに受け入れることで粛然と終了する。
さらにいえば、消耗戦の果てのドローゲームは恥ではない。彼らの多くは、千日手に到るプロセスにこそ価値はあり、結末は神の手の中にあると信じている……。
前置きが長くなったが、欧州王者アヤックス(オランダ)と南米王者グレミオ(ブラジル)との間で行われたクラブ世界一を決める戦いは、延長戦でも決着がつかず、スコアレスのままPK戦に突入し、最終的には4対3でアヤックスがグレミオを振り切った。このゲームはチェスに似て、結果よりも互いの様式に重きが置かれていた。少なくとも私の国にはそう映った――。
「ここのピッチは悪すぎる。最悪だ。そのため我々が得意とするグラウンダーの速いボール・サーキュレーション(パス回し)ができなかった。いいフットボールをお見せするにはパーフェクトな環境が必要だ。ところが、ここのピッチときたら……」
口を開けばピッチ、ピッチ、ピッチ……。聞きようによっては蔑称の「ビッチ!」ともとれ、不愉快なことこのうえない。
試合後の記者会見。アヤックスのファンハール監督は満足のいく試合ができなかった要因として、国立競技場のフィールドの芝の状態をあげ、不満と怒りを爆発させた。
「では、具体的にどの部分に満足できなかったのですか?」
たまりかねた日本人記者が、その場を執り成すように尋ねると、赤ら顔に湯気がほとばしった。
「すべてだ。これではプロフェッショナルなフットボールはできない。クリエイティブなフットボールもできない。トヨタカップは、いわばクラブのワールドカップだろう。テニスのデビスカップでも最高のコートを提供するため、地面の下にまで気を配っているじゃないか」
一理はある。しかし、感情が表に出過ぎてしまっているため、著しく説得力を欠く。もう少し、サッカー第三世界の住人を包みこむように、あるいは諭すように冷静に語ることはできないものか。
ファンハール監督はヨーロッパ人に珍しく、イソップ童話を読んだことがないらしい。旅人のコートを脱がせたのは北風ではなく太陽だったはず。口角泡を飛ばして説教するよりも、穏やかな口調で説明する方が、ストンと胸に落ち、当事者だって静かに省みるに決まっている。洋の東西を問わず、人間の習性とはそういうものだ。
ところが、ファンハール監督ときたら、まるで利かん坊のようにわめき立てるだけで、こちら側のエクスキューズを全く引き出そうとしない。ホストカントリーに敬意を払わないばかりか、感謝の言葉すらない。書生の正論にも似て、ひとりよがりの印象を受けたのは私ひとりではないだろう。
それでも「一理はある」と先に述べた。前線に3トップを配置し、ピッチを目いっぱい広く使うアヤックスのサッカーは、芝がカンビされてこそ初めて輝きを得ることができるのだ。
国立競技場の芝は、ヨーロッパの芝に比べて浅く、いたるところで“損傷”の跡が見受けられた。土質も硬く、それは決して胸を張って世界に誇れるものではないくらいのことは我々だって認識している。
ヨーロッパのサッカー中継を、テレビで見ているとよく分かるのだが、彼らはボールを「転がす」のではなく「滑らせる」。芝が深いために、ゴルフでいうティアップしたような形になることが多く、結果としてサイドチェンジを容易にさせる。もちろん、それはアヤックスの大きな武器になっている。
ところが、この日、アヤックスの持ち味のひとつであるロングレンジのサイドチェンジはあまり行われなかった。ピッチが悪いために、長いパスは自粛したのだろう。前半、同サイドの短いパスを素早くつなぐことでチャンスを掴もうとしたが、ファンハール監督のいうところの「ナロー・スペース(狭いスピード)」での攻防は、コンタクトプレーに強く、密集地帯の制圧を得意とするグレミオの思うツボ。かくしてアヤックスは、攻めてはいるが、攻めきれない、いわゆる攻めあぐねの陥穽にじわじわと足を取られていく。
セルジオ越後氏が説明する。
「アヤックスの攻撃はパス、パス、パス。テンポが単純でアクセントをつける選手がいないため、グレミオに読まれてしまっている。アヤックスからすれば本当はグレミオに前に出てきてもらいたいところなんだけど、ハーフは守ってばかりで攻撃に参加しない。こういう局面を打開するには、少々、攻撃でリスクを冒すしかない。しかし、アヤックスはそれをしなかったね。これではなかなかフィニッシュに結びつかない」
それでもフィニディ・ジョージ、クライファート、オフェルマルスという、才能も特徴も全く違うトリオを前線に配し、それをリトマネンが自在にコントロールする超攻撃的なサッカーは随所にその片鱗をのぞかせた。
32分、ブリンドのスルーパスを受けて抜け出したクライファートが右のフィニディに流し、ゴール前に折り返したクロスを、DFの肩ごしにクライファートがヘッドで狙った。
続く41分、R・デブールのスルーパスがグレミオの最終ラインの裏に通り、それを俊足のオフェルマルスが足を引っかけるが、GKのダンルレイにセーブされた。
ピッチの状態が芳しくないとはいえ、アヤックスの優雅で機能的な「ボール・サーキュレーション」は、それだけで見る者の目を釘付けにした。グラウンダーのパスはセンチ単位の誤差で交換され、ピッチの上には幾通りもの幾何学模様が描かれた。
それについて、奥寺康彦氏はこう語る。
「当たり前のことが当たり前のようにできる。これがアヤックスのサッカー。個人の技術がしっかりした上に戦術があるから、それがより生きてくる。
キックについてはヒザから下の振りが速く、しかもノーモーションだから、まず相手に読まれない。それに、これも基本的なことだけど、常に受ける側の気持ちを思ってパスを出しているよね。そんなこと誰でも分かっているっていうかもしれないけど、Jリーグのレベルじゃまだまだ分かっていない選手がたくさんいるよ。アヤックスの選手のパスが包装紙で包まれた“商品”なら、Jリーグの選手のパスは、ただ紙で包んでますよ、というだけで、相手だって気持ちよく受け取る気にならないよね」
愚問を承知で奥寺氏に訊ねた。
「日本代表やJリーグが、アヤックスから参考にすべき点はありますか?」
初冬の外気に嘆息を白く濁らせ、奥寺氏は言った。
「悲しいけど、ひとりひとりの技術が違い過ぎる。少年たちは参考にすべきだが、Jリーグの選手たちは、いまさら真似しない方がいい」
アヤックスの「ボール・サーキュレーション」を見ているうちに、ひとつの法則に気がついた。パスはほとんどが斜めであり、ジグザグ状につながれていく。ひとりの選手がボールを持つと他の選手はサポートに、新しいスペースの開拓にと自在に動きだし、その約束事はオートメーション・システムのように一糸乱れることなく継続される。
それにしても、なぜアヤックスは、かくも斜めのパスにこだわるのか。
セルジオ越後氏は分析する。
「角度のあるパスというのはカットされにくいし、受ける側のボールに向かう姿勢がよくなる。それに、縦パスと違って背中を向くプレーが少なくなるでしょう。すると、次のプレーに移るのにスピードが出るんだ。
それに、敵陣での斜めのパスの交換は相手を誘い出す狙いもあったと思う。グレミオは、先にも言ったようにDF陣は皆、ペナルティエリア付近に固まってしまって前に出てこない。これを誘い出して分断しなければ、ちょっと崩しようがないでしょう。いわゆるエサを撒いたという意味合いもあるかもしれない」
欧州王者アヤックス・アムステルダム。国内リーグで無敗を誇り、得点55に対し、失点はわずかに5.ヨハン・クライフを擁し、1971年から3年連続でヨーロッパチャンピオンズカップを制覇した頃のチームに匹敵するという風評を我々は真に受け、来日前、トータル・フットボールのさらに進化した形に思いを馳せた。
時間もスペースもないACミラン流のプレッシング・フットボールがリアリストたちの理想郷であるのに対し、アヤックスのトータリズムにはロマンチストたちの夢想が、いまだ随所に息づいている。
「勝利」というテーゼが片方にある。「美学」というジン・テーゼがもう片方にあるならば、それをアウフヘーベンする形で花開いたのが70年代のアヤックス・サッカーであり、それはある意味でクラシックと訣別するサッカー史に燦然と煌くメルクマールでもあった。
アヤックスが失ったヨーロッパ・チャンピオンの座を奪回するには、実に四半世紀近い歳月を必要とした。平均年齢23歳の新星アヤックスは、ノスタルジーの延長戦上に位置しながら、新たなる可能性をも秘めたスーパーチーム。ここで自らの視座を明かせば、私はひとつのテーマにしぼって、このゲームを観戦することにした。すなわち、機能美は芸術たりうるのか――。
(後編に続く)
<この原稿は『Number』(文藝春秋)1996年1月4日号に掲載されたものです>
父親が子供にチェスを教える時、最初にいう言葉はいつも決まっている。
「あらゆる局面で数的優位をつくれ」
モダンチェスの現場において、いきなり敵陣深く攻め入り、クイーンやキングを追い詰めるという戦術は存在せず、地道に8個のポーンを収集にかかる。
この前線の二等兵をいかに攻め落とすかが前哨戦のカギであり、敵陣をカタストロフに陥れ、キングの首をはねるシナリオの断片をそこに見出すことは難しい。
勝者にとってフィニッシュは歓喜の一瞬ではない。それは夜のとばりが朝日ににじむ瞬間にも似て、敗者が静かに受け入れることで粛然と終了する。
さらにいえば、消耗戦の果てのドローゲームは恥ではない。彼らの多くは、千日手に到るプロセスにこそ価値はあり、結末は神の手の中にあると信じている……。
前置きが長くなったが、欧州王者アヤックス(オランダ)と南米王者グレミオ(ブラジル)との間で行われたクラブ世界一を決める戦いは、延長戦でも決着がつかず、スコアレスのままPK戦に突入し、最終的には4対3でアヤックスがグレミオを振り切った。このゲームはチェスに似て、結果よりも互いの様式に重きが置かれていた。少なくとも私の国にはそう映った――。
「ここのピッチは悪すぎる。最悪だ。そのため我々が得意とするグラウンダーの速いボール・サーキュレーション(パス回し)ができなかった。いいフットボールをお見せするにはパーフェクトな環境が必要だ。ところが、ここのピッチときたら……」
口を開けばピッチ、ピッチ、ピッチ……。聞きようによっては蔑称の「ビッチ!」ともとれ、不愉快なことこのうえない。
試合後の記者会見。アヤックスのファンハール監督は満足のいく試合ができなかった要因として、国立競技場のフィールドの芝の状態をあげ、不満と怒りを爆発させた。
「では、具体的にどの部分に満足できなかったのですか?」
たまりかねた日本人記者が、その場を執り成すように尋ねると、赤ら顔に湯気がほとばしった。
「すべてだ。これではプロフェッショナルなフットボールはできない。クリエイティブなフットボールもできない。トヨタカップは、いわばクラブのワールドカップだろう。テニスのデビスカップでも最高のコートを提供するため、地面の下にまで気を配っているじゃないか」
一理はある。しかし、感情が表に出過ぎてしまっているため、著しく説得力を欠く。もう少し、サッカー第三世界の住人を包みこむように、あるいは諭すように冷静に語ることはできないものか。
ファンハール監督はヨーロッパ人に珍しく、イソップ童話を読んだことがないらしい。旅人のコートを脱がせたのは北風ではなく太陽だったはず。口角泡を飛ばして説教するよりも、穏やかな口調で説明する方が、ストンと胸に落ち、当事者だって静かに省みるに決まっている。洋の東西を問わず、人間の習性とはそういうものだ。
ところが、ファンハール監督ときたら、まるで利かん坊のようにわめき立てるだけで、こちら側のエクスキューズを全く引き出そうとしない。ホストカントリーに敬意を払わないばかりか、感謝の言葉すらない。書生の正論にも似て、ひとりよがりの印象を受けたのは私ひとりではないだろう。
それでも「一理はある」と先に述べた。前線に3トップを配置し、ピッチを目いっぱい広く使うアヤックスのサッカーは、芝がカンビされてこそ初めて輝きを得ることができるのだ。
国立競技場の芝は、ヨーロッパの芝に比べて浅く、いたるところで“損傷”の跡が見受けられた。土質も硬く、それは決して胸を張って世界に誇れるものではないくらいのことは我々だって認識している。
ヨーロッパのサッカー中継を、テレビで見ているとよく分かるのだが、彼らはボールを「転がす」のではなく「滑らせる」。芝が深いために、ゴルフでいうティアップしたような形になることが多く、結果としてサイドチェンジを容易にさせる。もちろん、それはアヤックスの大きな武器になっている。
ところが、この日、アヤックスの持ち味のひとつであるロングレンジのサイドチェンジはあまり行われなかった。ピッチが悪いために、長いパスは自粛したのだろう。前半、同サイドの短いパスを素早くつなぐことでチャンスを掴もうとしたが、ファンハール監督のいうところの「ナロー・スペース(狭いスピード)」での攻防は、コンタクトプレーに強く、密集地帯の制圧を得意とするグレミオの思うツボ。かくしてアヤックスは、攻めてはいるが、攻めきれない、いわゆる攻めあぐねの陥穽にじわじわと足を取られていく。
セルジオ越後氏が説明する。
「アヤックスの攻撃はパス、パス、パス。テンポが単純でアクセントをつける選手がいないため、グレミオに読まれてしまっている。アヤックスからすれば本当はグレミオに前に出てきてもらいたいところなんだけど、ハーフは守ってばかりで攻撃に参加しない。こういう局面を打開するには、少々、攻撃でリスクを冒すしかない。しかし、アヤックスはそれをしなかったね。これではなかなかフィニッシュに結びつかない」
それでもフィニディ・ジョージ、クライファート、オフェルマルスという、才能も特徴も全く違うトリオを前線に配し、それをリトマネンが自在にコントロールする超攻撃的なサッカーは随所にその片鱗をのぞかせた。
32分、ブリンドのスルーパスを受けて抜け出したクライファートが右のフィニディに流し、ゴール前に折り返したクロスを、DFの肩ごしにクライファートがヘッドで狙った。
続く41分、R・デブールのスルーパスがグレミオの最終ラインの裏に通り、それを俊足のオフェルマルスが足を引っかけるが、GKのダンルレイにセーブされた。
ピッチの状態が芳しくないとはいえ、アヤックスの優雅で機能的な「ボール・サーキュレーション」は、それだけで見る者の目を釘付けにした。グラウンダーのパスはセンチ単位の誤差で交換され、ピッチの上には幾通りもの幾何学模様が描かれた。
それについて、奥寺康彦氏はこう語る。
「当たり前のことが当たり前のようにできる。これがアヤックスのサッカー。個人の技術がしっかりした上に戦術があるから、それがより生きてくる。
キックについてはヒザから下の振りが速く、しかもノーモーションだから、まず相手に読まれない。それに、これも基本的なことだけど、常に受ける側の気持ちを思ってパスを出しているよね。そんなこと誰でも分かっているっていうかもしれないけど、Jリーグのレベルじゃまだまだ分かっていない選手がたくさんいるよ。アヤックスの選手のパスが包装紙で包まれた“商品”なら、Jリーグの選手のパスは、ただ紙で包んでますよ、というだけで、相手だって気持ちよく受け取る気にならないよね」
愚問を承知で奥寺氏に訊ねた。
「日本代表やJリーグが、アヤックスから参考にすべき点はありますか?」
初冬の外気に嘆息を白く濁らせ、奥寺氏は言った。
「悲しいけど、ひとりひとりの技術が違い過ぎる。少年たちは参考にすべきだが、Jリーグの選手たちは、いまさら真似しない方がいい」
アヤックスの「ボール・サーキュレーション」を見ているうちに、ひとつの法則に気がついた。パスはほとんどが斜めであり、ジグザグ状につながれていく。ひとりの選手がボールを持つと他の選手はサポートに、新しいスペースの開拓にと自在に動きだし、その約束事はオートメーション・システムのように一糸乱れることなく継続される。
それにしても、なぜアヤックスは、かくも斜めのパスにこだわるのか。
セルジオ越後氏は分析する。
「角度のあるパスというのはカットされにくいし、受ける側のボールに向かう姿勢がよくなる。それに、縦パスと違って背中を向くプレーが少なくなるでしょう。すると、次のプレーに移るのにスピードが出るんだ。
それに、敵陣での斜めのパスの交換は相手を誘い出す狙いもあったと思う。グレミオは、先にも言ったようにDF陣は皆、ペナルティエリア付近に固まってしまって前に出てこない。これを誘い出して分断しなければ、ちょっと崩しようがないでしょう。いわゆるエサを撒いたという意味合いもあるかもしれない」
欧州王者アヤックス・アムステルダム。国内リーグで無敗を誇り、得点55に対し、失点はわずかに5.ヨハン・クライフを擁し、1971年から3年連続でヨーロッパチャンピオンズカップを制覇した頃のチームに匹敵するという風評を我々は真に受け、来日前、トータル・フットボールのさらに進化した形に思いを馳せた。
時間もスペースもないACミラン流のプレッシング・フットボールがリアリストたちの理想郷であるのに対し、アヤックスのトータリズムにはロマンチストたちの夢想が、いまだ随所に息づいている。
「勝利」というテーゼが片方にある。「美学」というジン・テーゼがもう片方にあるならば、それをアウフヘーベンする形で花開いたのが70年代のアヤックス・サッカーであり、それはある意味でクラシックと訣別するサッカー史に燦然と煌くメルクマールでもあった。
アヤックスが失ったヨーロッパ・チャンピオンの座を奪回するには、実に四半世紀近い歳月を必要とした。平均年齢23歳の新星アヤックスは、ノスタルジーの延長戦上に位置しながら、新たなる可能性をも秘めたスーパーチーム。ここで自らの視座を明かせば、私はひとつのテーマにしぼって、このゲームを観戦することにした。すなわち、機能美は芸術たりうるのか――。
(後編に続く)
<この原稿は『Number』(文藝春秋)1996年1月4日号に掲載されたものです>