第282回 ルーチョ・レイナのタスクとは ~ホルヘ・ヒラノVol.17~

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 1985年6月23日、ペルーの首都リマの国立競技場には43000人を超える観客が詰めかけていた。翌86年のワールドカップ出場権を掛けた南米予選は大詰めを迎えていた。グループ1の首位アルゼンチン代表と2位ペルー代表の勝ち点差は2。ペルー代表が勝利すれば勝ち点差で並ぶことになる。

 アルゼンチン代表の先発は以下の通りだ。

 

【キーパー】フィジョル(アトレチコ・マドリー スペイン)

【ディフェンダー】ガレ(オリンピック・リヨン フランス)、トロセロ(インデペンデンテ アルゼンチン)ダニエル・パサレラ(フィオレンティーナ イタリア)、クラウセン(インデペンディエンテ)

【ミッドフィールダー】ジュスティ(インデペンディエンテ)、ルッソ(エストゥディアンテス アルゼンチン)、バルバス(レアル・サラゴサ スペイン)

【フォワード】パスクッリ(レッチェ イタリア)、ホルヘ・バルダーノ(レアル・マドリー スペイン)、ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(ナポリ イタリア)

 

 対するペルー代表は、前節のベネズエラ戦とほぼ同じメンバー、布陣を敷いた。たった1人、ルーチョ・レイナことルイス・レイナ・ナバーロを除いて——。

 

 ルーチョ・レイナは59年5月にペルーの内陸部ウワナコで生まれ、リマで育った。全てのペルー人がそうするように、ストリートでサッカーを始めた。

 

「ぼくはリマにあるグアダルーペという学校でサッカーをしていた。ある日、スポルティング・クリスタルのユースチームと練習試合をすることになった。試合は1対2で敗れたが、ぼくは1得点を挙げた。するとユースの監督がぼくをスカウトしたんだ」

 

 ポジションは攻撃的ミッドフィールダーだった。ペルーの日系人社会とも接点はあった。

 

 OHからDHへコンバート

 

「AELUでもプレーしたことがある」

 

 AELU(Asociación Estadio La Unión)は1953年にペルーの日系人が設立したスポーツクラブである。サッカーグラウンドがある陸上競技場、プール、体育館などを備えた総合スポーツ施設を所有している。ホルヘ・ヒラノ、そして彼の父親もAELUのサッカー部門に関わっていた。

 

 スポルティング・クリスタルではルーチョ・レイナは守備的ミッドフィールダーを任されることになった。78年にトップチームでデビュー、翌79年にはペルーリーグ一部で優勝。82年のワールドカップ・スペイン大会にペルー代表として出場している。

 

 ヒラノとの出会いは82年だった。

 

「コーキ(ヒラノの愛称)がいた(ウニオン・)ウワラルと試合をして0対1で敗れた。ゴールを決めたのはコーキだった。コーキは左右で蹴れて、スピード、決定力のある選手だった。ぼくのパスミスを拾って彼が決めたんだ」

 

 スポルティング・クリスタルがヒラノに目をつけたのはこのゴールだったとルーチョ・レイナは考えている。

 

「コーキはぼくのお陰でクリスタルに入ることが出来たのさ」と目配せした。

 

 翌83年、ヒラノはスポルティング・クリスタルに移籍した。寡黙で控え目なヒラノ、陽気でおしゃべりのルーチョ・レイナ。対照的な二人は気が合う仲間となった。そして85年からルーチョ・レイナはLaU(ラ・ウー)こと、ウニベルシタリオ・デポルテスに移籍していた。

 

 マラドーナと共に試合から“消える”

 

 ルーチョ・レイナはここまで南米予選では1試合も出場していない。後日、監督のロベルト・チャーレスは地元紙の取材でこう明かしている。

 

「試合の数日前、アルゼンチン対ベネズエラ戦のビデオを分析した。すると、マラドーナをマークしていたベネズエラの選手がいい仕事をしていた。選手たちに、マラドーナをマークしたい奴はいるかと聞いてみた。すると、レイナが手を挙げて“ぼくがやります”と自信満々で言った。他に手を挙げる選手はいなかった」

 

 世界最高の技術、スピードを持つマラドーナをマークするとなると、荒っぽく無尽蔵のスタミナがあり、ストッキングがいつも泥で汚れている選手を思い浮かべるかもしれない。ルーチョ・レイナはその正反対、足元の技術のある守備的ミッドフィールダーだった。監督のチャーレスと同じだ。だからこそ、ルーチョ・レイナに賭けてみようとチャーレスも思ったのかもしれない。

 

 アルゼンチン戦の前、チャーレスは選手の前でこう言い放った。

 

 ——今日の試合は勝ちに行く。10対10だ。マラドーナもルーチョ・レイナは試合に関わらない。

 

 ルーチョ・レイナに与えられたミッションは、マラドーナと共に試合から消えることだった。

 

(つづく)

 

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。最新刊は、「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」(カンゼン)

代表を務める(株)カニジルは、鳥取大学医学部附属病院一階でカニジルブックストアを運営。とりだい病院広報誌「カニジル」、千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学附属病院がんセンター広報誌「梅☆」編集長。

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