二宮: 川淵さんが障がい者スポーツを初めて見たのはいつ頃ですか?

川淵: 1960年、まだ私が早稲田大学の学生だった頃、日本代表の一員として、合宿でドイツ・デュイスブルクのスポーツ・シューレ(スポーツの研修施設)を訪れた時でした。そこの施設には体育館が3つあって、その1つで障がい者と健常者が一緒にボールを使ってスポーツを楽しんでいたんです。当時の日本では、街なかで障がい者を見ることさえもほとんどなかった時代です。なのに、ドイツではスポーツを楽しんでいるんですからね。本当に驚きましたよ。とても衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えています。

 

伊藤: 日本では、「障がい者は安静にしていてください」というのが常識とされた時代でした。

川淵: そうですよね。その後、日本には障がい者専用のスポーツ施設がつくられ始めました。ただ、僕としてはちょっと違和感を持っていたんです。「障がい者の人は、健常者の人と一緒にスポーツを楽しみたいのでは?」と思っていたからです。だから「障がい者専用」というのが、少し違うんじゃないかなと。確かに、日 本でも障がい者がスポーツをすることに対して、だいぶ理解が広がっているとは感じますが、それでも海外のように"一緒に"という方向性ではないように思えます。

 

二宮: 元競泳日本代表の萩原智子さんから聞いた話ですが、オーストラリアではオリンピアンもパラリンピアンも、そして一般の人たちまでもが、同じプールで泳いでいると。その話を聞いて、「なるほど。それこそが、本当の意味での共生社会だな」と思いました。

川淵: バスケットボールやテニスといった車椅子系の競技や、ブラインドサッカー、ゴールボールなど、障がいの有無に関係なく、みんなで楽しむことができるスポーツはたくさんあります。健常者が体験できるイベントが行なわれていたり、健常者が出場できる大会もありますよね。実際にやってみると、どれだけ難しいことをやっているかがわかる。それがまた、障がい者を理解することにもつながっていくのだと思います。

 

 障がい者の生き方を変えた1964年東京パラリンピック

 

二宮: 前回の1964年の東京パラリンピックは、障がい者の人生観に大きな影響を与えました。パラリンピックに出場したある選手が何に一番驚いたかというと、「欧米の選手たちはみんな、職を持って、税金を払って、そのうえでスポーツをしている」ことだったそうです。病院や施設で安静にしているだけの自分たちとのあまりの差に衝撃を受けたと。

伊藤: 仕事だけでなく、なかには結婚をして、子どもがいる選手もいたそうで、そのことにも驚いたそうです。

 

二宮: 当時の日本では、障がい者というと、仕事に就いたり、家庭を持つということが非常に困難だった。その頃と比べると、今では障がい者の生活もだいぶ変わりましたが、それでもまだまだですよね。2020年には、欧米の水準に並ぶところまでいきたいですね。

伊藤: 2020年を境に、日本の社会を変えたいと思います。

川淵: おっしゃる通りです。自国でパラリンピックを開催する意義は、そういうところにもあるのだと思います。

 

(第3回につづく)

 

川淵三郎(かわぶち・さぶろう)プロフィール>

1936年12月3日、大阪府生まれ。早稲田大、古河電工で活躍。1964年東京オリンピックにサッカー日本代表として出場した。現役引退後、古河電工サッカー部監督、日本代表監督を歴任。88年、日本サッカーリーグの総務主事に就き、サッカーのプロ化をけん引。91年、Jリーグ初代チェアマンに就任。2002年W杯招致にも尽力した。日本サッカー協会会長などを経て、現在は同最高顧問を務める。2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会評議員、公立大学法人首都大学東京理事長。08年、日本サッカー殿堂入り。2009年、旭日重光章受章。


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