日本代表監督に就任したオフトが、真っ先に衝突したのがラモスだった。
 当時のラモスは選手たちのボス的存在であり、誰からも一目置かれていた。もっといえば不動の10番ラモスを抜きにして、チーム構成など描けないというのが日本サッカーの現実だった。
 ところがオフトは代表監督に就任した最初の記者会見で、ピシャリとこう言い放った。
「カズとラモスと言えども関係ない。特別扱いしない。みんなと一緒だ」
 それを伝え聞いたラモスは烈火のごとく怒った。
「おもしろいじゃないか! じゃあ、やってごらんよ。どんなチームをつくるか、見てみたいよ!」

 やがて敵対し合っていたふたりに、奇妙な信頼感が芽生え始める。1992年11月、アジアカップの決勝、サウジアラビア戦におけるオフトのひとつの作戦がきっかけだった。
 このゲーム、日本はボランチの森保を警告で欠いた。さて、誰が、その穴を埋めるか。
 オフトは驚くことにゲームメイカーのラモスを中盤の底のダーティ・ワーカーに指名した。

 当然のことながらラモスはおもしろくない。ゲームメイカーからボランチへの配転というのは、当時の日本サッカーの常識に照らせば格下げである。
 だから、ラモスは面と向かってオフトにこう言った。
「ボランチには北澤をもってくればいいじゃないか。なぜオレがボランチなのか、よくわからないよ」

 それに対するオフトの解答はこうだ。
「勝つために、この作戦を実行するんだ。キミがオレの言うことを聞いてくれたら、必ず日本は勝てる。アジアのチャンピオンになることができるんだ!」
 ゲームはオフトの描いていたとおりの内容になった。1対0で日本快勝。試合後、オフトはラモスに駆け寄り、耳元でつぶやいた。
「なァ、言ったとおりになっただろう」

 後日、ラモスはしみじみと語った。
「監督と選手、立場は違ったって、お互いに勝ちたい気持ちは同じ。オレたちは真剣に意見をぶつけ合うことで、お互いのことが理解できるようになった。だからこそ、オレはオフトと一緒にアメリカ(94年ワールドカップ)に行きたかったんだ……」

 1993年10月28日、深夜(日本時間)。
 日本は悲願のワールドカップ初出場に、あと一歩と迫っていた。
 アジア地区最終予選、対イラク戦。2対1と日本、1点のリード。ラスト、ワンプレー。ムフシンのショートコーナーをフセインガディムがニアポスト付近へ絶妙のセンタリング、オムラムのヘディングシュートがゆるやかな弧を描いてゴール左下隅に突き刺さった。
 いわゆる“ドーハの悲劇”。アメリカ行きのチケットがスルリと手から滑り落ちた瞬間だった。

 日本のアタックの差配を一手に引き受けていたラモスは頭を抱え、茫然自失の表情で、深々とアルアリスタジアムの芝の上にへたり込んだ。試合終了を告げる無情のホイッスルが鳴り響いたのは、引くにもその10数秒後のことだった。
 歯に衣着せずにいえば、このゲームに限り、オフトの采配はおかしなことずくめだった。
 2対1と1点リードの後半、オフトは長谷川健太に代えて福田正博を、中山雅史に代えて武田修宏を投入した。

 不吉な予感が走った。というのも、選手を勝負強い、勝負弱いのふたつのタイプに分ける時、彼らは後者に属する選手だと、ずっと以前から思っていたからである。
 カタールに乗り込む前、ラモスを扱ったある番組で福田はこう言った。
「(最年長である)ラモスさんを、ぜひワールドカップに連れて行きたい!」
 福田よ、自分はどうなのか? 他人のためにワールドカップはあるのか? 思わず私はそう聞き返したくなった。

 武田にしてもそうだ。代わって入った武田は案の定、無人のフィールドにひとりよがりなセンタリングを送るという致命的なミスを犯し、結果的に、それが“ドーハの悲劇”へと結びつくのである。誤った自己主張が破局へ招いたと言えば言い過ぎか。
 オフトは最後の最後の部分で詰めを誤った。運がなかったのではない。人を見る目がなかったのである。
 あるいは、こう言うことも可能だろう。オフトはデットマール・クライマー以来の誠実な教育者ではあったが、鉄火場で爪を研ぐ生粋の勝負師ではなかったのだと。
 試合後、ホテルに戻ったオフトは、ひとつの言葉を朝までうめくように繰り返しつぶやいたという。
「あと10秒、あと10秒……」

(おわり)

<この原稿は2004年9月16日号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>
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