アトランタ五輪でのブラジル撃破、悲願のワールドカップ(フランス大会)初出場、そしてワールドユース選手権準優勝と、目覚しい進歩をとげる日本サッカー。その礎を築いたのは誰か、と問われれば、私は迷うことなくハンス・オフトというオランダ人の名前をあげる。
 今じゃ日本サッカーにおける慣用句となっている「アイコンタクト」「トライアングル」「「サポート」「スモール・フィールド」「コンパクト」「タスク」「ピクチャー」といった用語は、いずれもオフトが持ち込んだものだ。
 オフトが日本代表監督に就任したのは1992年3月。初めて指揮を執ったアルゼンチン戦(キリンカップ)で、オフト・ジャパンは大健闘を演じる。
 0対1。今こそ「善戦じゃ意味がない」といわれるほどに成長した日本代表だが、当時はまだ欧米列強の影を踏むこと自体が奇跡と見られていた。

「日本の選手の中で、誰が一番目立ったか?」
 日本人プレスのお決まりの質問に、アルゼンチンのバシーレ監督は、意外にも森保一というバイプレーヤーの名前を口にした。
 とどめはFWカニージャの次の一言。
「いやになるほど17番がいつもいるんだ。スペースが開いたから入り込もうとすると、いつの間にかカバーに入っている。僕にとって一番嫌だったのが、あの17番だよ」

 サンフレッチェ広島の森保一がキリンカップの日本代表メンバーに選ばれた時、サッカー関係者の間からはいっせいに驚きの声が上がった。
「森保? あのサンフレッチェの選手ってそんなにいいの?」
 無理もない。日本リーグ(マツダ)の一部で彼がプレーしたのは91年−92年のわずか1シーズン。それも18試合に出場して4得点をあげたのみ。それまでの2年間は二部リーグでプレーする地味なミッドフィルダーに過ぎなかった。

「ところでキミ、どこのポジションやってるの?」
 代表での初合宿、森保はある選手から真顔でそう聞かれてしまう。そのくらい無名の選手だったのだ。
 森保は決してテクニックにすぐれた選手ではない。それを補おうと的確に、しかも素早くボールをフィードした。コンパクトなサッカーを目指すオフトがボランチという戦略上の要衝に起用した理由は、実はその愚直さにあったのだ。

 当時、森保は自らの役割について述べたものだ。
「ええ、オフトからははっきりと言われていますよ。“キミの仕事はダーティ・ワーク、すなわち汚れ役だ”って。
 ときどきボールを追いかけたくなることがあるんですが、そのときは“試合にのめり込むな!”と自分にいい聞かせるんです。相手のパスを制限することによって、後ろの選手を守りやすくするのが組織的なディフェンスの基本ですからね」

 ハンス・オフトを語る上で、サンフレッチェ広島取締役強化部長にして日本サッカー協会技術委員会副委員長の今西和男の名前を抜きにすることはできない。
 今西がサンフレッチェの前身であるマツダの監督に就任したのは、今から15年前。1984年のことだ。
 マツダの前身である東洋工業は日本リーグで5度、天皇杯で3度の優勝経験を誇る名門だが、当時は低迷期にあり、チームはJSLの二部に転落していた。

 当然のことながら「一部復帰」が当面の目標となった。チームの現状をつぶさに分析した結果、今西は再建方針として二本の柱を打ち立てた。
 ひとつはスカウティング網の確立であり、そしてもうひとつは外国人コーチ、監督招聘による戦術面の整備だった。今西はヤマハを二部優勝させ、天皇杯でも頂点に導いたオフトに白羽の矢を立てた。

 オフトはコーチを引き受けるにあたって、ひとつの条件を示した。それは「お互いの責任と権限を明確にしよう」というものであった。
「グラウンドの外のことは任せるが、グラウンドの中のことは一切口出ししないで欲しい」
 その申し出を今西は快諾した。もとより、それは望むところであった。

「サッカーでめしをくっているプロであり、しかも組織、戦術の両面を教えることができる人物」
 今西は誰よりもオフトを高く評価していた。だからこそ役割をきちんと分担したうえで、外国人指導者との二人三脚をスタートさせたのである。
 1994年第一ステージ、サンフレッチェ優勝。選手たちの歓喜の抱擁を目のあたりにしながら、今西は言ったものだ。
「オフトがウチの土台を築き上げてくれたんですよ」

(後編につづく)

<この原稿は1999年10月発行『1ミリの大河』(マガジンハウス)に掲載されたものです>
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