第236回 アントニオ猪木流独自外交「行けばわかるさ」
国から「指定難病」の対象となっている「全身性アミロイドーシス」により、さる10月1日、79歳で死去したアントニオ猪木さんが、闘いの場をリングから国会に移したのは1989年7月のことである。猪木さんは46歳だった。
国会議員となった猪木さんの最初にして最大の仕事が、イラクでの日本人人質解放だった。
90年8月のイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争に至る過程で、イラクは日本人41人を「ゲスト」という名の人質として本国に連行する。政府間の人質解放交渉が難航する中、単身乗り込んだのが猪木さんだった。
人質の解放交渉にあたり、猪木さんは800年前に活躍した、あるアラブ人格闘家の名前を口にした。ジュネード・バグダーディ。貧しい家の出の者に賞金を分け与えるなど、イスラム社会で最も尊いとされる“喜捨の精神”を持つ男だと称えたところ、政府要人の態度が徐々に軟化してきた。ここから流れが変わるのである。
リングで、ひとくせもふたくせもあるレスラーや格闘家と対峙してきた猪木さんは、国会議員になってからもバイ(1対1)の交渉に強かった。独特の勝負勘が、数々の窮地から自らを救い出した。
76年12月12日、パキスタンのカラチで行われた同国の英雄アクラム・ペールワン戦では、手首に噛みついてきた相手の口の中に、その手首を押し込み、右手で目を突いた。こんなことができる男は、世界広しと言えども猪木さんくらいだろう。
リング上で修羅場をくぐり抜けてきた経験は、北朝鮮でも生きた。初めて北朝鮮に行った際、政府要人に、いきなり「北朝鮮のミサイルは、日本に向いているそうですね」と訊ねた。命知らずも、いいところである。
だが、その不躾な聞き方が、逆に相手の胸襟を開かせた。
「初対面で、本音を口にしたのは先生だけです」
それをきっかけに先方の懐に飛び込み、95年4月には平壌で“平和の祭典”を開催する。イラクでも使った手だ。北朝鮮は世界から3万人の観光客とマスコミを受け入れた。
周知のように猪木さんの師匠の力道山は朝鮮半島の出身だった。娘婿は北朝鮮で体育相の要職にあり、猪木さんはその伝手を頼って拉致被害者の情報を探ろうとしていたようだ。
こうした独自外交が陽の目を見ることはなかったが、最後まで言行一致を貫き通した人生だった。
迷わず行けよ
行けばわかるさ
合掌
<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2022年11月4日号に掲載されたものです>