船木誠勝が現役復帰を宣言した。
 7月16日、横浜アリーナ『HERO’S』のリング上で――。
 正直、驚いた。選手が、引退を撤回することが珍しくはない格闘技界。だが船木に限っては、それは無いと思っていたから。
 あれから7年以上も経つのに、まるで昨日のことのように鮮明に憶えている。衝撃的だった船木の引退表明――。2000年5月26日、東京ドームで開かれた『コロシアム2000』のメインエベントで船木はヒクソン・グレイシーと闘い、チョークスリーパーを決められ失神負けを喫した。直後、記者会見場で彼は「引退します」と口にしたのだ。
 あの夜、彼の言葉には重みがあった。いかなる姿勢で船木が格闘技に取り組んでいたかを改めて思い知らされ感銘を受け、「格闘技を見続けてきて良かった」と私は心底から思った。

 7年前のヒクソン戦直後に船木は、こんな風に話している。少し長くなるが、ここに記しておきたい。
「格闘技の勝負は1回だけで、2回目、3回目は無いと思っていますので、この負けという結果に、すべて納得しています。やり残したことも無いし、自分でやった練習の成果と今日のコンディションを、ヒクソンとの攻防の途中で足を傷めたりなどの終末が、失神という結果です。失神したら終わりですから、潔く足を洗う決心をしました」
「帰りのドームの花道でファンの顔を見られなかったです。あれだけ期待してもらって『すみませんでした』なんて言えないですよ。単に自分の力が足らなかったというだけですから『退く』という言葉だけです。それほど(まだ試合を続けるほど)特別な人間じゃないです」

「今日のは、格闘技の試合でした。スポーツじゃないです。レフェリーストップもドクターストップも無い世界なんです。首を絞められた時に『ああ、俺は死ぬんだな』と思いました。段々、耳が聞こえなくなってきて、目の前が白くなってきて。それで気づいたら立っているんですけど、周りに人がいっぱい集まっていて『やっぱり生きてて良かった』と改めて思いました。
 レフェリーが止めていなければ、おそらくはヒクソンも、あのまま絞め続けていたと思います。そういう意味で格闘技というのは『負けたら死』なんですよね。スポーツじゃないんです」

「物騒な話なんですが、レフェリーストップが無いということは、どちらかが死ぬ闘いじゃないですか。(日本刀をリングに持っていったのは)臆病な話なんですが、死ぬのが嫌だったんですよ。一カ月くらい前の合宿が終わった時に、ちょっと弱気な自分が出てきて『この際だから、入場の際にヒクソンをぶった斬ってやろうかな』と思いましたね。でも、それをやってしまったら、いまバスジャックをやったり、人を刺したりしている奴等と同じ人間になっちゃうじゃないですか。それにヒクソンとの闘いを観に来てくれたファン、パンクラスの選手たち、応援してくれるすべての人を裏切ることになりますから。でも、それくらいに自分が追い込まれていたことは事実ですね。自信とは裏腹に不安も同居していました」
 リングに上がることを「ギャラのため」と割り切る粗野な選手では船木はなかった。自らをトコトン追いつめるほどに闘いに対しての真摯さを持っていた。そのことが言葉に滲んでいた。

 現役を引退後、彼は俳優として活躍。『シャドー・フューリー(Shadow Fury)』『ゴジラ FINAL WARS』「真説タイガーマスク」等の映画、テレビドラマ『ドクター・コトー』にも出演していた。舞台をリングから銀幕に移して活躍していた。7年の間にインタビュー取材、座談会等で船木とは何度か話した。いつ会っても肉体はグッドシェイプ、話す言葉にも「真摯さ」が漂っていた。「もう一度、闘いたいとは思わない?」と尋ねたことがあった。その時、彼は「格闘技は観ています。リングに復帰したいとは、まったく思わないですよ」と笑って話していた。
 だが時が流れる中で、心に変化が生じたのだろう。私は、船木に復帰してもらいたくない…とは思っていない。彼は、31歳まで自分を追いつめ精一杯闘い、一度は限界を迎えた。そんな時、自分を守るためには、心を守るために休息を得るためには「引退」を口にするほかなかったのだろう。

 ビデオデッキに長らく見ていなかった一本のテープをセットし再生する。当時の緊張感が蘇り、思わず手に汗を握った。ヒクソン×船木戦は、いまも語り継がれるべき、観る者の心を揺さぶる珠玉の名勝負だ。両者の闘いに対する覚悟がビシビシと伝わってくる。

「ようやく長い闘いが終わりました。格闘技に答えはありませんでした」
 7年前、船木はそう口にした。
 船木は再びリングに上がることで、一度は無いと結論づけた格闘技の「答え」を見つけることができるのだろうか。

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近藤隆夫(こんどう・たかお)
1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等のスポーツ番組でもコメンテーターとして活躍中。著書には『グレイシー一族の真実〜すべては敬愛するエリオのために〜(文春文庫PLUS)』ほか。
連絡先=SLAM JAM(03-3912-8857)
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