サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムはペシミスティックな預言者である。
 先頃、上梓した『日本人よ!』(新潮社)という自著のエピローグの部分で、あえてアジア杯について言及し、こう結んでいる。<だから、この言葉だけは、絶対に忘れないでほしい。「終わるまではすべてが起こりうる」。人生はだいたいそうだし、サッカーでは常にそうだ>

 カタール戦、終了間際の同点ゴール。「ドーハの悲劇」や「カイザースラウテルンの惨劇」を経験している私たちは、この程度のことでは驚かない。落胆もしない。オシムが指摘するようにサッカーとはそういうものだろう。

 ただ、言葉は悪いが、日本代表の戦い方にはいつも「残尿感」がつきまとう。とどめを刺すべき時間帯で気の抜けたバックパスがあまりにも多すぎる。
 その意味で後半43分のセバスティアンの同点ゴールは「事故」ではあっても、不可避のそれではない。とどめを刺しきれなかった日本代表が、自らの不始末で呼び込んだ、ある種、必然的な「事故」だったと考えたほうがいい。
 
 私見を述べれば失点を悔やむより、とどめを刺せなかったツメの甘さを反省すべきだ。そうでなければ格下のチームを相手にしても、日本代表は常に「事故」と隣り合わせのサッカーを余儀なくされることになる。
 
 それにしても、日本代表はいつまで高い授業料を支払い続けるつもりなのか。自著の中でオシムは日本人がしばしば敗戦の理由に使う「経験不足」という言葉を槍玉にあげ、こう切り捨てている。<人生において、経験は二十年間あれば十分だと思う。サッカーではもっと短くなければならない。サッカーにおける経験は一年半あれば十分だというのが私の考えだ。なぜなら、一度や二度なら同じミスや失敗や挫折を繰り返してもよいが、それらを三度繰り返したならば、それは実は悪い経験であるからだ。つまり、学習していないということになる>
 
 うなずける点が多い。あとは実践あるのみだ。支払った高い授業料から教訓を得て、それがピッチにいかされてはじめて学習効果は証明される。オシムジャパンは失敗から多くを学ぶことのできる賢くてたくましいチームだと信じている。

<この原稿は07年7月11日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

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