老いてなお盛ん、とはこの御仁のことを言うのだろう。

 

 

 グレート小鹿、81歳。史上最年長のプロレスラー兼新潟プロレススーパーバイザーだ。

 

 さる6月25日、新潟プロレス三条大会のリングで、6人タッグマッチに出場した大仁田厚に“電流爆破マッチ”での対戦を要求され、11月の新潟大会で実現することになりそうだ。

 

「あんたが一世を風靡したカン・フー・リーなら受けてみろ!」

 

 2人の師匠筋にあたるジャイアント馬場の故郷で、カン・フー・リーを持ち出すか。

 

 これは1970年代前半、小鹿がヒールとして米国のリングを荒らし回っていた頃に用いていたリングネームである。若いファンはキョトンとしていたのではないか。

 

 当時の写真を、本人から見せてもらったことがある。アゴひげと口ひげをはやし、イメージは“謎の中国人”。中国拳法に似せた蹴りや突き以外は、目潰しやかみつきなどの反則のオンパレード。

 

 これが受けに受けた。テキサス州のアマリロでは、あのテリー・ファンクからNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取している。

 

 小鹿が初めて米国へ“武者修行の旅”に出たのは67年だ。当時は太平洋戦争の影響で反日感情が強く、「まちを歩けば石や生卵が飛んできた」という。そればかりではなく「車のタイヤを全部パンクさせられた」こともあった。

 

 人気マスクマン、ミル・マスカラスからロサンゼルスのマットでNWAアメリカス・ヘビー級王座を奪取した時には、東スポの1面を飾った。

 

「マスカラスはね、ヒスパニック系が多かったロスではトップスターで、英雄的存在だった。まるで映画俳優みたいだったよ。

 

 ちょうど、その頃は大悪党のフレッド・ブラッシーの勢いがかげりを見せ、マスカラスに対抗できる悪役がいなかった。オレはタイミングがよかったんだね、最初の試合は、確かテレビマッチで、いきなり彼の目にシオをすり込んでフォール勝ちだよ、アッハッハッ」

 

 そう言えば、昔、日本人や日系人のヒールは、反則攻撃にシオをよく使っていた。1974年に全日本プロレスのリングに上がったプロフェッサー・タナカはゲタの裏に隠したシオをジャイアント馬場の目に投げつけ、1本を奪った。目をかきむしりながらマットの上をのたうち回る馬場の姿が、今も忘れられない。

 

 そんなわけで、新潟のリングにカン・フー・リーが戻ってくる。「年寄りの冷や水」なんて言わせない!

 

<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2023年7月28日号に掲載された原稿です>

 


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