ニックネームは“テキサスの荒馬”。きっぷのいいファイトで、日米のマットを沸かせたプロレスラーのテリー・ファンクが亡くなった。79歳だった。
兄のドリーと組んだタッグチーム“ザ・ファンクス”は日本で大人気だった。1977年12月に開催された全日本プロレスの「世界オープンタッグ選手権」では、アブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークの“史上最凶悪コンビ”を倒して優勝を果たした。
この試合の無軌道ぶりは、今も語り草だ。テリーはブッチャー組のフォークなどを使った凶器攻撃により、右腕を切り裂かれ、大流血を余儀なくされた。
耐えに耐え、サウスポースタイルから、怒りのナックルパート。その瞬間、会場のボルテージは最高潮に達した。
それは、まるで水戸黄門が、番組の最後の場面で懐から取り出す印籠のようだった。
このようにテリーはヤンチャそうに見えて、とてもクレバーな男だった。日本人の気質を熟知した上で、ファンが期待するテリー像を演じていたのだ。
テリーが当時、プロレス界で最も権威のあるNWA世界ヘビー級王者になったのは1975年12月。31歳の時だった。この世界最高峰のベルトをテリーは1年以上も保持した。
日米両国でのテリーの人気の秘密――それは相手の良さを引き出す技術を持っていたことだ。
自著『テリー・ファンク自伝』(エンターブレイン)には、こんな記述がある。
<他のレスラーたちの協力によって世界王者になれるわけで、世界王者は対戦者たちを世界王者と同じ実力があるように見せるために存在しているのだ>
プロレス界きってのレジェンド、ルー・テーズのスタイルについては否定的で<対戦相手を目の敵にして、挑戦者にそぐわないと判断すると、いい試合にできるのにわざとつまらない試合をしてみせた>(同前)とバッサリだ。
プロレス観の違いはともかく、エンターティナーとしてのテリーの才能は際立っていた。合掌
<この原稿は『週刊大衆』2023年9月18日号に掲載された原稿です>
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