お家芸と呼ばれる柔道にあって、鬼門と呼ばれるクラスが男子66キロ級だった。
 旧65キロ級時代含め、世界の層が厚いこのクラスで、日本人が五輪で金メダルを獲得したのは‘84年ロサンゼルス大会の細川伸二まで遡らなければならない。
 一階級下の60キロ級には今回のアテネで五輪3連覇を達成した野村忠宏がいる。その野村に比べれば、内柴正人の世界での実績は、いささか心許ないものがあった。
 「知らねぇくせしてコイツら。心の中ではずっとそう思っていましたよ」
 語気を強めて内柴は言った。
 アテネ五輪出場が決まった時点で、「絶対に金メダルを獲ってみせる」と心に誓った。秘めたる決意を明かさなかったのは、反骨精神のなせる技だった。

 アテネでの内柴はこれまでにもましてたくましかった。何とオール一本勝ちという離れ業を演じての金メダル。決勝では自らより身長が14センチも高いスロバキアのヨゼフ・クランツをわずか106秒で仕留めた。相手を背中から落とす芸術的とも言える大内刈りで決めた。

 振り返って内柴は語った。
 「正直言って“こんなに簡単に勝っちゃっていいの”という感じでした。一回戦から“ひらめき”がありました。と言っても、偶然に、これまでやったことのない技がかかったというのではない。日頃、練習していたことがすべて出た。嫌な相手にどう対応するか、どう切り返していくか。その研究の成果が現れた。それがうれしかった…」
 4歳年上の野村の背中を追いかけてきた。「野村先輩に勝って世界チャンピオンになりたい」。それを最大の目標にして戦ってきた。

 しかし内柴には「偉大な先輩」以上の強敵が存在した。10キロ近い「減量」である。
 筋肉質の内柴は身長こそ160センチと低いが、余分な肉がないため、減量は過酷を極めた。試合前になると、それこそ飲まず食わずの日々が続いた。
 2002年11月の講道館杯ではシドニー五輪から復帰した野村に一本勝ちし、世界選手権代表選考を兼ねた翌年の全日本選抜体重別に臨んだ。しかし減量に失敗し、失格。内柴は失意の淵に沈んだ。

 振り返って本人は語る。
「サウナに行っても朝まで体重が落ちなかった。試合当日の朝、軽量が終わったら何か飲もうと思ってコンビニに入ってからの記憶がないんです。倒れた? いや、それすらも覚えていない。
 減量は年に1回だったら落とせるんです。しかし年に何回も、となると落とせない。そうなると精神的にキツくなってきて、もう試合に出て畳の上に立つだけで精一杯という感じになってくる。

 食事にしても2週間前から徐々に少なくしていって、最後は食べてもゼリーだけといった状態。もうまわりが楽しそうにしているだけで憎かったですよ。
 中には僕を慕って『先輩、先輩』と寄ってくるヤツもいるのですが、僕は人としゃべるのも嫌だった。しゃべる元気さえなかったんです。
 練習をやっても体に力が入らず、声も出ない。減量着を着なければ汗も出ない。本当に不健康のかたまりでした」

 ――死にたい、と思ったこともあるそうですね?
「そう思っても、死ぬ勇気がなかった。ちょうどその頃、結婚を間近に控えていたんです。もし結婚相手も家族もいなかったら、死にはしなくても、もう柔道はやっていないでしょうね。どこかに逃げていますよ。本音を言えば、柔道とは縁を切りたかった」

 ‘03年5月、結婚。人生の歯車がコトンと音を立てた。悲運の男にツキが巡ってきた。
「結婚式で恩師の斎藤(仁)先生が“もう一度、全日本に勝ち上がってきてくれ”“帰ってきてくれ”とスピーチしてくれたんです。続けて“皆さん、こいつに少しずつ命を分けてやってください”とも言った。
 ここまで言われて、ここで踏ん切りをつけて出直さなかったら、もう男じゃないと思いました。よし、階級を上げ、アテネを目指そうと。

 自分で言うのも何ですが、今回は本当によく頑張りました。体力的なトレーニングから精神的なトレーニングまで精一杯やった。もしこれでメダルが獲れていなくても、僕は満足していたと思うんです。それくらい頑張った。
 結果として金メダルを獲ることができたけど、本当はメダルなんて必要なかった。そこまでの満足のいく経過が欲しかった。今はやっとオリンピックに僕の居場所を見つけることができた。そんな思いです」

 この6月25日には長男が誕生した。輝(ひかる)と命名した。
「この子には魂をもらいました」
 ほんの少し表情を緩めて、内柴は続けた。「この子がいなかったら、おそらく僕は勝っていないでしょうね。実は早く僕はオヤジになりたかったんです。自分の父親が“子供のためにも仕事を頑張る”というタイプの人間で、僕もそういう教育を受けてきた。
 だから、日本に戻ってきて子供に金メダルをかけ、女房が写真をバシバシ撮っている時には少々、誇りに思いました。また、このメダルで60キロ当時の自分と世間に対して“償い”はできたかな、とは思っています」

 苦難を乗り越えての金メダル。流した涙と汗はウソをつかないという。だが、内柴は流す涙も汗も底をつくほどの過酷な減量に耐えてきた。まさに奈落の底からの生還だった。
「今もキツイんですよ」
 意外な言葉を金メダリストは口にした。
「オリンピックが終わって、こんなに練習を休んだのは初めてだったんです。できれば練習だけは続けたかった」
 どこまでも練習のムシである。
 まだ26歳。円熟の境地に入るのは、これからだ。

<この原稿は2004年12月号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>
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