開催前は重苦しい雰囲気だった北京オリンピックも、始まってみると予想以上に盛り上がっているようだ。もちろんグルジア侵攻や、思想弾圧など嫌なニュースも聞こえてくるけど、それを吹き飛ばすくらい、アスリートの熱い戦いは人の心をつかむということか。
 そんな中でちょっと気になるニュースが2つ。女子マラソンの野口みずきと、中国の英雄、男子110メートルハードルの劉翔の棄権だ。どちらもアテネ五輪金メダリストで国民的英雄、今回も金メダル候補最右翼で、国民の期待は大。本人へのプレッシャーも並々ならぬものがあったはずだ。しかし、どちらもスタートを切らずして棄権。それに対する国民の反応の大きさは並々ならぬものがある。ただ、同情票が多い野口選手に対し、非難が多い劉翔。どちらも本人の望むところではなかったはずなのだが、この違いは国民意識の差なのだろうか。(写真:劉翔の棄権を報じる地元紙)
 まず野口選手。直前の合宿で痛めたハムストリングの肉離れが回復せずに、レースの数日前に棄権を発表。補欠選手のスタンバイなど、陸連の対応の甘さこそ指摘されても、彼女本人に対する批判はほとんどなかった。日本国民は彼女が勝つためにぎりぎりのトレーニングを積み重ねていたのを報道などで知っているし、それを責めるべき意味などない事をなんとなく感じているのだろう。大会当日を含めて、静かに見守るメディアが多かったのは大人の対応だったと思う。

 対して劉翔。春から痛めていたアキレス腱の痛みと戦いながら本番を迎えた。後でVTRを見ると、競技場に現れた時点でおかしいのは明らか。この4年間、北京大会の象徴のように扱われてきた中で、走れない重圧は相当のものがあったはず。この数ヶ月は相当に苦しい思いをしてきたのだろう。そして、他選手のフライングでやり直しスタートになった際に棄権を決意。走りだして止めるか、スタート前に止めるか…。そんな2つのチョイスしかなかった彼の心中を思うと苦しくなってしまう。その直後は競技場で泣き出す観客も多かったという。その期待の裏返しであろうか、その後の非難は相当なものだった。さすがにメディアは事態の沈静化を計るべく擁護の報道をしているようだが、熱くなった世論は収まりそうにない。

 中国では成功したものに対しての賞賛も大きいし、その見返りとして得られるものも莫大だ。劉翔やバスケットのヤオミンなどのスター選手は桁違いの契約金を手にする。そんな成功のねたみなのか、一旦落ちた英雄に対する非難も激しいものがあり、バッシングの嵐。もちろん本人も結果を出した事によって名誉も金も得たわけだが、スポーツとは永遠に勝ち続けられるものではない。いつか負ける時がくるのは当然の摂理。どこかでそのターニングポイントを受け入れざるを得ない。

 また、金メダル候補はもちろん、国内チャンピオンを目指しているアスリートも、勝つためにやっているのであり、故障するためにトレーニングしている訳でない。身体に負担をかけて、一旦身体を痛めつけ、それをリカバリーすることで、トレーニング効果は出る。だから辛くとも、身体を痛みつけなければならない。そう、勝つためには故障と紙一重のところまで追い込まなければならないのだ。おそらく競技スポーツを追及しているアスリートで故障経験のない者がいたならば、競技歴が浅いか、レベルが低いかどちらかであろう。そのくらいアスリートと故障は隣り合わせと言っていい。

(写真:マラソン代表発表後の会見にて。順調に練習をこなしていた野口だったが…)
 野口も劉も、誰よりも勝つことの難しさを知っているからこそ、厳しいトレーニングを自らに課した。そのさじ加減が微妙に狂うと今回のような結果を招く。アスリートであれば誰にでも考えられる事で、他人事とは思えないはず。そして、故障で身体が痛いのはもちろんだが、もっと痛いのは心である。走りたいのに走れない心の苦しみは、物理的な故障の痛みなど打ち消してしまうほどだろう。そんな状態の選手をさらに追い込む世論とはなんだろうか。確かに背水の陣で大会に挑む心がけは大切だ。しかしこれはスポーツであり、戦争ではない。負けたものや、準備段階で失敗したものを、非難できるだけの努力を我々がしているかと聞かれると、どれだけの人が歯切れよく答えられるか…。中国国内だけではない。日本人も、故障を押して出場した女子マラソン土佐礼子選手に対しては厳しかった。野口選手が直前で棄権しなければ、棄権したかったのは彼女だったかもしれないのに……。

 平和にスポーツを行い、観戦し、盛り上がれる環境が大切な事だと感じさせられるこの事件。劉の言葉「天を恨むのでなく、前に向かって進むだけです」にちょっと救われた気がした。
 ロンドンでは、野口みずきと劉翔がハイレベルな競技する姿を見ることが出来ると期待している。


白戸太朗オフィシャルサイト

白戸太朗(しらと・たろう)プロフィール
 スポーツナビゲーター&プロトライアスリート。日本人として最初にトライアスロンワールドカップを転戦し、その後はアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向、息の長い活動を続ける。近年はアドベンチャーレースへも積極的に参加、世界中を転戦している。スカイパーフェクTV(J Sports)のレギュラーキャスターをつとめるなど、スポーツを多角的に説くナビゲータとして活躍中。
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