第277回 外国人力士第1号 高見山来日60年
今では珍しくも何ともない外国人関取(朝鮮半島出身者除く)の戦後第一号は米国ハワイ出身の元関脇・高見山大五郎(米国名ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア)である。
高見山は、土俵の上だけではなく、独特のハスキーボイスで「2倍・2倍」と叫ぶ丸八真綿のマルハチ羊毛パッド、軽快なダンスを披露する松下電器の小型テレビ「トランザム」のCMなどで、お茶の間の人気も博した。
その高見山がホノルル空港から2つのトランクとともに羽田空港に降り立って、今年でちょうど60年になる。
高見山が来日したのは東京五輪開幕を8カ月後に控えた1964年2月23日。ちなみに、その日は今上天皇の4歳の誕生日でもあった。
その当時の相撲部屋は、いじめやしごき、“かわいがり”が横行していた。入門した高砂部屋も例外ではなかった。
高見山が最初に直面した難題は、相撲界独特の“付け人制度”である。
親方や関取の身の回りの世話をしながら相撲界のしきたりや礼儀を学ぶのだが、風呂場で親方の足の裏を洗おうとしたところ、間違えて軽石でくるぶしをこすってしまい、目から火花が散るほど殴られたというのだ。
そもそも風呂場で親方や関取の背中を流すこと自体、外国人からすれば「不思議な行為」である。慣れるのには時間がかかったに違いない。
先述した独特のハスキーボイスも、本人によると「ハワイでの学生時代はコーラス部に入る」ほどの美声の持ち主で、「上を向いて歩こう」(英題スキヤキ)を得意にしていたという。
ところが稽古中にくらったのど輪が原因で声帯を潰し、しわがれ声になってしまったのだ。
人種差別も、当時は当たり前だった。兄弟子には「ガイジン、ガイジン」とからかわれ、そのたびに「よしっ、いまにみてろ。ボクは絶対関取になってみせる」と決意を新たにしたという。
自著『あたってくだけろ!』(講談社・スコラ)に、こういうくだりがある。
<わたしが、どうしてもわからなかったのは個人と群衆の関係。一人のときは、いい人なのに大ぜいになるとガラッと人が変わる。どなったり、乱暴になったり……。>
残念ながら、そういう日本人は相撲界以外にもいる。気が小さい人間ほど、衆を頼もうとするものだ。
陽気な高見山も、この6月で80歳になった。力士としては格段の長寿である。大所高所から相撲を見守ってもらいたい。
<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2024年8月9日号に掲載された原稿です>