第299回 具志堅用高と沖縄 カンムリワシ殺法

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 沖縄出身のボクシング世界チャンピオンは9人もいる。人口約147万人ながら47都道府県で最多だ。

 

 具志堅用高(WBAライトフライ級)、上原康恒(WBAスーパーフェザー級)、渡嘉敷勝男(WBAライトフライ級)、友利正(WBCライトフライ級)、新垣諭(IBFバンタム級)、浜田剛史(WBCスーパーライト級)、平仲明信(WBAスーパーライト級)、江藤光喜(WBAフライ級暫定)、比嘉大吾(WBCフライ級)。

 

 84年にIBF王者となった新垣は、当時日本ボクシングコミッション(JBC)がIBFに加盟していなかったため、世界王者として承認されなかった。ところが2013年に加盟したことにより、状況が変わった。本人から申し出があれば、資格審査委員会で王者として認定するか否かを協議するとしている。

 

 沖縄の本土復帰から4年後の1976年10月10日、WBAジュニアフライ(現ライトフライ)級王者ファン・ホセ・グスマンから具志堅がベルトを奪った。彼の活躍がなかったら、最軽量(当時)のこのクラスが、ここまで脚光を浴びることはなかっただろう。また具志堅に続け、とばかりに沖縄から、前途有為な青年がジムの扉をノックすることもなかったかもしれない。

 

 その意味でグスマン戦は、沖縄そして日本、いや世界のボクシング史におけるエポックと呼ぶべき名勝負だった。

 

 

 会場は山梨学院大学体育館。彼は、東京からあずさ2号に乗って、この地にやってきた。

 

 下馬評はグスマン有利。25勝(20KO)1敗の実績はダテではなく、“リトル・フォアマン”の異名をとった。

 

 スパーリングでグスマンは視察にきていた具志堅を呼び寄せ、こう告げた。

「もっとリングに近付いて、オレの繰り出す強いパンチを、よく見ておけ!」

 

 スパーリング・パートナーを強打の餌食にすることで、21歳の挑戦者にプレッシャーを与えようと考えたのだ。

 

 だが具志堅は、沖縄に生息するカンムリワシのように獰猛だった。2ラウンド、左ストレートでぐらつかせ、連打で最初のダウン。ノーカウントも含めると、さらに2度のダウンを追加した。

 

 具志堅は3ラウンド、左フックで腰を落としたが、その後も攻め続け、7ラウンド、連打でフィニッシュした。

 

 以降、王座防衛13回。具志堅のモットーは「120%沖縄のために戦う」というもの。沖縄の英雄は4年5カ月にわたって王座を守り続けた。

 

<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2025年6月20日号に掲載された原稿です>

 

 

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